Transit Time
ホロウ・シカエルボク


錆色の夕陽が世界を、血の雨の跡のように見せる頃、ゴム底に画鋲がひとつ刺さったスニーカーを履いて、ぼくは巨大な工場が立ち並ぶ海の近くの道を歩いていた―なぜ画鋲を抜かないのかって?それはゴム底を貫いて足の裏を傷つけるには少し長さが足りなかったし、アスファルトを踏みしめるとき、奇妙なグリップが感じられてそれが新鮮に感じられたから…まあ端的に言えば、結構気に入っていたから、という答えになる、旅をしていた、駅を見つけられれば電車に乗り、気まぐれに降り、気まぐれに歩いて―どこかに行きたいわけではなかった、ただただぼくは、移動し続けていたいという衝動をどうにも抑えられなくなってしまったのだ、ダラダラと続けていた安いアルバイトを辞めて、恋人に別れを告げて、大事なものだけを持って旅に出た、もう一度この街に帰るつもりなのかどうか、それすらもわからなかった、ただ生まれたからそこに居たというだけの、下らない街だ、どんな自分にもなれない連中が、社会の末端でクソ真面目に生きて、酒に酔いニコチンをばらまき、適当な恋に落ちて適当な遺伝子を残す、そんな街、夏には全国的に知られている派手な祭りがあって、その時集まったお金で一年を食い繋ぐ街…良く出来ているな、とは思う、とても良く出来ている、ただ生きているだけの人たちが楽しく生きられるためのシステムが、完璧に構築されている、レゾンデートルやロックンロールとは無縁の人生なら、こんなに楽しいところはないのかもしれない、でもぼくはそういうものがないと一日たりとも過ごせない人間だったから、生まれた街のことは到底好きになれなかった、真っ白い紙芝居を延々見せられているみたいな気分になった、紙を捲る人はだいたいこんなことを呟いていた、「真面目に生きて、楽しければそれが一番」そういう人生もありだろうな、とは思う、でもなにもそんなものを紙芝居にする必要なんかない、彼らにはそういうところがいまいち理解出来ていない…ぼくはどうしてもそこに染まることが出来なかった、彼らはぼくを気持ち悪がって、いろいろな意味の無いことを邪推しては触れ回って、それですべてを理解したような顔をしていた、根幹が虚ろな人間は、そんな自分を守るために必要以上の自衛を続けるものだ―「弱い犬ほどよく吠える」簡単に言えば、つまりそういうことだ―海に停めてある船から、工場敷地内の一番端っこにある建物へと繋がっているベルトコンベアが石みたいなものを運んでいる、石炭だろうか?いまの社会にもそんなものの需要はあるのだろうか?一応考えてはみたがぼくに答えが出せる問題では当然なかった、自分にはまだまだ知らないことがたくさんある、大人になってもなお、それを自覚出来る性格で本当に良かったなと思う、「好奇心は猫をも殺す」って言葉もあるけど―どこかの国のことわざだっけ?だけど、鎖につながれて、自分の領地の中だけで偉そうに吠える犬になるくらいなら、ぼくは好奇心によって間抜けな死を迎える猫で居たいな、と思うよね、そう思わない?巨大なトラックがたまに通り過ぎていく、巨大なトラックが喚起させるサイズ感の乱れは、「ポンヌフの恋人」を思い出させる、酔っぱらって、小人になって、橋の上でゲタゲタ笑っている、あのシーン…工業地帯を過ぎると小さな港に着いた、大きめの船着き場、と言ってもいいくらいの細やかな港だ、小さなフェリーですら苦しそうだ、昔は、このあたりにも漁で生計を立てている家がたくさんあったのかもしれない、小さなエンジンのついたボートがいくつか並んでいたが、稼働してると思えるようなものはひとつもなかった、港の奥には年季の入ったコンクリ建築の二階建ての建造物があった、正方形で、港の正面にむいた壁の真ん中に入口があった、両開きのガラス戸に、電球の傘を貼り付けたような大きめのノブがついていた、古い喫茶店なんかでたまに見かけるデザインだ、鍵は開いていた、中に入ってみると、車一台分のホールの奥に二階へ上がる階段があり、ホールの脇に四つの部屋が並んでいた、入口の左脇のスペースは本当に喫茶店だった、でもテーブルや椅子はなにもかも店の隅に積み上げられていて、カウンターとスツール席だけが悲し気に思い出を啄んでいた、なにもかもが埃に色褪せていた―喫茶店の向かいにあるのは事務所だった、字のかすれたプレートにそう書いてあった、漁業組合かなにかの事務所だろうか?奥の部屋にはどちらも畳の敷かれた小上りがあるだけだった、漁師たちが休憩をするための部屋だったのかもしれない、どの部屋も施錠されていた、そして二度と開くことは無い―階段の左脇は壁で、小さな台に置かれたピンク色の公衆電話があるだけだった、十円玉を入れてダイヤルを回すやつだ…この建物が意味を失くしてから、それだけの年月が経っているということだろう―右脇にはトイレとシャワールームがあった、トイレは共同だった、何周もしていまだったら流行の最先端だ―階段を上ると空っぽのワンフロア―のスペースがあった、大きな窓が三つの壁を支配していて、もう夜になろうとしている海を満遍なく見渡すことが出来た、今夜はここに泊まることにした、歩き続けてクタクタだった、小さなリュックを下ろし、寝袋を出して横になるとあっという間に眠っていた―周囲の空気がとてつもなく昂っているのを感じて目を覚ますともう朝だった、海から昇った太陽が真直ぐに、大木のような眩しい光をぼくの居る部屋にぶち込んでいた、ああ、とぼくは思わず声を漏らした、ぼくの人生だって空っぽに違いないのだ、だけどこうして、とんでもない朝に包まれることだって、出来るのだ、まるで海が破裂しているみたいだった、世界はいつだってぶっ飛んでいる、ぼくらだけがつまらなく忙しなく、毎日を切り刻みながら生きているに過ぎないのだ。



自由詩 Transit Time Copyright ホロウ・シカエルボク 2023-08-14 18:43:45
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