ああ、次の波がもしも爪先にやって来たら
ホロウ・シカエルボク


海の彼方で揺らめいていた狐火がいつの間にか消えていたので、千枚通しで手のひらの真ん中を思い切り貫いた、その刹那、激しい火柱が世界を二つに分け、それからそれまでと同じ暗闇と静寂が訪れた、そう、狐火は消えてしまったのだ、ずっと眺めていたのにいつの間に消えたのかまったく分からなかった、だって星のない夜、月は黒雲に隠されている、大型で強い台風がゆっくりと移動している、この季節になるとお決まりのように天気予報が繰り返すニュース、もしかしたら誰も歳など取ってはおらず、同じ季節を繰り返してるだけなのかもしれないなんて、そんなまやかしを信じてみたくなったりもするさ、けれど、人生の中で何人かは居なくなったし、やはり時間は確実に経過しているのだ、人生は一回きりの横スクロールゲームさ、好みじゃなかろうが飽きてしまおうが画面は勝手に流れていく、立ち止まっていたって強引に動かされてしまう、実質、その中で立ち止まり続けたものなど居はしないのだ、そんな甘えを人生は許してくれたりはしない、よく、あるじゃないか、もしもタイムマシンで戻れるならいつの時代に戻りたい?っていう質問、あんな質問は馬鹿げているよね、現在以外の場面は存在しない、たとえ実際に過去に戻ることが出来たとしても、体験しているのは現在以外ありえないだろう、だいたい、過去と全く同じように生きることなど不可能だ、現在を否定して新しい何かを得るつもりなら、何かいつもと違うことをしてみればいい、ほんの少し変えてみるだけで新鮮味は得られるものだ、ほんの少し違う行動、ほんの少し違う思考、それが出来ないほどに盲目になったものたちが生きているのが過去のような現在さ、砂はどこまでも柔らかく自由だったけれど、長く腰を下ろしているには少し居心地が良くなかった、ポケットに砂が入ってしまうんじゃないかとか余計なことを考えてしまって、心からのんびりすることが出来なかった、だから流木を拾ってきて、スマホのライトで汚れ具合を確かめると、座るのに適した角度を模索してようやく落ち着くことが出来た、それでようやく海の上に視線を戻すことが出来た、別に、狐火を見たかったわけじゃない、ひとりでじっとしているのに夜の海ほどの場所はあるだろうか?観光地でもなければ夜に他人に出会うことなどまずありはしない、そして、波の音は果てしない集中と思考の彼方へ勝手に心を連れて行ってくれる、なんて便利なシステムだ、これはチャンネルの問題なのだ、海を見ても「海だ」で終わるような人間だってたくさん居る、チャンネルの問題なのだ、それはたくさんあればあるほどいい、たくさんあればあるほどひとつの答えに近付く、みんな確信を欲しがるから間違える、確信がなければみっともないとでも考えているのだろう、集団の中でしかアイデンティティを得られない人間の考え方ってだいたいそういうものだ、いかに自分に有利な状況で周囲に溶け込むのか、そういう人間が考えているのはそんなことばかりだ、波は寄せて引いてを繰り返す、そのリズムは決して一定ではない、でも誰一人その規則性を疑うことは無い、それは体内に刻まれているタイミングなのだ、呼吸と同じことだ、誰もが規則的に呼吸をしているわけではない、でもそれは規則性というもので確実に意識にインプットされている、こういうものは理屈じゃない、すでにそう書かれていることを一度素直に飲み込んでいればいい、その羅列を記憶しておけばある時、それが何について語っているのか突然わかる瞬間がある、人生とはそんな瞬間だけが記録されていくノートブックのようなものだ、流木の感触にも飽きてきてしまった、砂浜に沈んだ立木を刺激しないようにゆっくりと立ち上がり砂を掃う、砂浜から立ち上がる時のそんな動作はどうしてほんの少し儀式めいてしまうのだろう?それはきっと夜にそんなところに居るせいなのさ、と、ようやくほんの少し顔を覗かせた月が物憂げに答える、帰るべきだろうか?明日のことを考えればそうした方がいいのだろう、でもなぜだろう、帰らなければならないと考えれば考えるほど、もう一度腰を下ろしたくなってしまうのだ、もう砂の上でも構わないというほどの、強い欲求が激しく心を揺さぶって来るのだ、ただの天邪鬼かもしれない、それとももっと複雑な理由があるのかもしれない、でもそんな答えを求めても結局のところ、ほんの少しの間だけのことなのだ、答えは持続しない、そうさ、答えは持続したりなんかしない、答えが持続している連中なんかみんな偽物なのさ、帰らなければならない、それはきっと理屈じゃない、帰りたくないと思っている気持ちだって、きっとそうさ、海は相変わらず呼吸のようにゆっくりと波を繰り返していた、たったひとつの景色の中にすべての答えが隠れていることもある、そしてそれはきっと、一生を継ぎ込んだとしても上手く語りきることなど出来はしないのだ。



自由詩 ああ、次の波がもしも爪先にやって来たら Copyright ホロウ・シカエルボク 2023-08-08 21:44:37
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