記憶は決して温まることは無い
ホロウ・シカエルボク


湖に浸したあなたの肢が
いつかの母親と同じ色になるとき
水鳥は穏やかな声で鎮魂歌を歌う
水面のさざめきは最期の指先

朝日の差し込む、もう動かない台所
その食卓に
並べられた写真はもう
どれが誰かもわからないくらいに色褪せて
生きもののようにざらついた砂に埋もれようとしていた
わたしはそれ以前の墓標のように
そんな風景をいつまでも眺めていたのです

森の中にはいつでもヴェールのように薄い霧が立ち込めて
あなたはまといつくそれに身震いをするでしょう
濡れた空気の中では幾度わたしが叫ぼうとも
その声があなたまで届くことはないでしょう
わたしは熊のようにあたりを屠りながら
いつか霧が晴れることを信じて待つでしょう

子守唄が正しく思い出せないのは、いつだって
眠ることが楽しかったころに聞かされたものだから
あのときのような目覚めはもう無いのだと
知りながら今夜も寝床に潜り込む
夢は何時だってこの世ではないところの話ばかりする

膝を折って繭のように座りましょう
思い出せないところはハミングで良いでしょう
心は在るのか無いのかわからないものだから
わたしたちはもっと無責任にそれを語るべきでしょう

白いペンキがあらかた剥げてしまった窓の下、生え放題の雑草の中で
蛇が子兎を絞め殺している
子兎の瞳はそれが何かもわからないまま
失おうとしている自分の生を必死で見つめていました
その蛇を殺すことは正義でしょうか
わたしには答えを出すことは決して出来ないのです

散らない花を誰が愛するでしょう
叶わぬ愛はきっと歌になり続けるでしょう
あなたはいつだって立ち続けるでしょう
わたしはいつだって見つめ続けるでしょう
子兎を飲み込んだ歪な蛇は
消化される間に様々な夢を見るに違いありません

あの頃ノートに書き綴った
物語の続きはもう忘れてしまった

あらかじめ決められていることがたくさんあるせいで
人はもう人で居ることすら出来ません
とうの昔に終わってしまったしきたりをぼんやりと守りながら
朦朧とした生を摩耗し尽くすまで生きるのでしょう

あの時聞こえた歌、言葉、忘れないままでいるのは
放つ側にも受け取る側にも
何の構えも要らなかったせいでしょう
真実は決して定型ではありません
どんな気持ちでそれを見つめたのか
そんなことがすべてを決めるのです
モニターの中で話している誰かの話が全て嘘に思えるのは
その人の中だけですべてが完結してしまっているからなのです

世界を照らす光に、流れていく雲に、流れて行く水に
思惑はひとつも無いでしょう
だからこそどこにでも彼らは行くことが出来るのです
たとえほんの僅か塞き止められたところで…

人を送る煙が糸のように空で見失われるころ
わたしの手元にある一輪の花は力尽きるでしょう
わたしはそれを無念に思いながらもゴミ箱に捨てて

あなたは濡れた手足を丁寧に拭くでしょう



自由詩 記憶は決して温まることは無い Copyright ホロウ・シカエルボク 2023-04-01 21:57:30
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