mechanical ventilator(人工呼吸器)
ホロウ・シカエルボク


世界は崩れ落ちたりなどしない、その中で右往左往する無数の個が、語ることもままならず腐り落ちていくだけだ、眠ることのない二四時、薄暗がりの部屋の中空にそんな言葉が捨て置かれていた、後頭部を包み込む枕の感触は俺をこの世にどうにかして留めておいてやろうという慈悲に満ちていた、今夜は夢を拒否するだろう、そんな予感がしていたがだからといって一度横になった身体を再び起こしてなにかを始めようという気にはなれなかった、昼間にはすっかり春になったかと思えるような暖かさがあったけれど、時計が日付変更線に近付くにつれて、熱を忘れたかのように辺りは冷えていた―こんな夜は何度もあった、今よりももっと闇雲で懸命だった青臭い時代には…クロニクルは天井で繰り広げられた、でもそんなものには何の意味もなかった、記憶など所詮他人事と同じようなものだ、ひとつ思い出すということは嘘をひとつ人生に埋め込むという行為だ、記憶を現実のまま思い出すことなんて決して出来はしない、だから記憶に踊らされる人間は、自分が錯覚し続けて生きている、すべてを知っているかのような顔をして生きている人間は、ひとつの正解を出すことすら出来ない、記憶―経験と言い換えても構わない、むしろその方が理解し易い、そう、経験…経験そのものには何の意味もない、その経験によって何を感じ、何を得たのかということこそが必要なのだ、経験したということだけで何かを得た気になってはならない、すべての現象は種のように体内でばら蒔かれる、すぐに発芽するものもあるし、しばらく時間の掛かるものもある、もちろん芽を出すことがないままに死んでしまう種だってたくさんある、種に意味を持たせるものはなんだ?土壌だ、ここで言う土壌とは自分の肉体のことであり、精神のことでもある、身体で知り、頭で知る、感覚で知る、事実というのは論理的思考によって得られるものではない、食事のように体内に取り込んで、分解され吸収されたり排出されたりする、吸収された食物から得られるものはエネルギーだ、経験で言えばそれは感覚、思考というものになるだろう、人間は本来、自然に思考をするように出来ている、頭の中ではない、潜在意識の外のところで、常に思考し続けているセクションがある、ある日突然、積年の疑問に答えが出たりするだろう、頭では忘れ去られていても、そういった場所で考え続けられているのだ、時々、自分が何を考えて行動しているのかわからないことがないか?そういう時、潜在意識の外での思考はとても活発に動いているのだ、デュアルコアとでも例えればイメージしやすいだろうか?主義主張が、欲望が、どれだけ人間の行く先をあやふやなものにしても、その中で蠢き続けているものは決して目的を見失ったり見誤ったりはしない、人間の本質はそこにある、変わることなくそこにあり続ける、表層がいくら濁り、澱み、腐り果てようとも、戻ろうと思えば戻ってくることが出来る、本当は…でも戻って来れるやつはひと握りも居ない、みんなすべてが終わったみたいにくたばっていく、この文章の一番初めに書いた言葉を覚えているだろうか?「世界は崩れ落ちたりなどしない」そう、世界は個の本質であり、個は世界の本質である―自由を内に秘めながら、不自由にこだわるのは滑稽だ、俺たちは世界の駒なのだ、世界と繋がっていることを理解していれば、慌ただしくもがく必要などひとつも無いはずだ―世界とはなんだ?世界とは命だ、何を言っているかわかるか?それは複数形で語られることがない、たったひとつのコアだと、誰もが本当は理解しているのだ、本質、とでも言い換えてみようか、本質は崩れ落ちることなどない、そいつが生き永らえる中で付着してきた様々な不純物が、泣き叫びながら終わっていくだけなのだ…人間は有限の存在でありながら、無限の魂を持つ、ドストエフスキーはいま何歳だ?やつの本が書店の棚に並ぶようになって、いったいどれだけの時が過ぎているんだ?世界は、魂は、本質は崩れ落ちることなどない、けれどそれを実感し、確かめることが出来るものは非常に少ない、今日最後の灯りはすでに暗闇の中に飲み込まれてしまった、睡魔は相変わらず訪れては来ない、枕の優しさはもはや祈りにも似て、クロニクルは剥がれ落ちて床の塵になった、記憶や思考に意味や名前をつけることをやめてから、夜はとてもとても長くなった、果たしてそれは本質へのルートなのか、それとも愚かな死への秒読みなのか…ひとつ瞬きをするとすべてが塗り替えられたような気がした、もちろんそれは、すべてが死の淵であるかのように凍りついているからだという理由に他ならない。



自由詩 mechanical ventilator(人工呼吸器) Copyright ホロウ・シカエルボク 2023-03-20 13:10:06
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