懐かしい笑顔に
beebee

 窓ガラス越しに店内を見渡す。レジ奥に立つ人物を見て一目で社
長だと分かった。懐かしさで思わず声が上がる。声を掛けるかどう
かで迷う。30年である、こちらの思い入れとは別に果たして分か
ってもらえるだろうか。
 長年勤務した銀行の退職を決めた時、趣味の写真撮影を兼ねて、
若い時に勤務した地区を回ることにした。この日は昭和62年頃に
勤務した恵比寿支店周辺を回っていた。丁度、サッポロビールの工
場跡地の再開発が決定した頃で、バブルが弾ける前の活況を呈して
いた。私は30歳と営業としては若手から中堅にかかる頃だった。
法人新規担当として新しい法人の取引先を開拓する事を専門として
いた。恵比寿は渋谷の手前にあって、地理的には至便な土地であり
ながら、渋谷に比べて賃料に割安感があり、当時から活発な若手企
業が育つ地区でもあった。
 私は懐かしい情景を探して歩いて行った。自分が成長を実感した
土地であり、その時代や時間を思って歩く。30年以上が過ぎてい
るが街角の雰囲気や情景に見覚えがある。代官山の交差点から渋谷
へ向かって歩いて行った。渋谷に近い鶯谷町、そこにあった企業を
探していたのだ。看板を探したが見つからない。無くなったのだろ
うか。30年も経っているのだ。
 その企業は渋カジと呼ばれたカジュアルブランドの一つで、男性
服飾雑誌の商品提供企業として名前が載る常連だった。渋谷地区に
集中して6店舗を出店していた。私は恵比寿支店に転勤した時から
注目していた。
 社長とは一目会った時から意気投合した。お預かりした決算書類
を分析して企業提案をした。成長期にある企業として現状の強みと
弱みを説明し、次の展開のために何が必要かを提案した。私は中小
企業診断協会に半年間研修派遣されたこともあり、その成果も込め
て本格的な企業診断を提案した。若い時の熱意は通じるもので、社
長から本社屋購入案件を任して頂いた。そして、私はその本社ビル
の竣工と移転の前に担当を引継いだのだった。
 どんな企業も銀行とは取引をしている。ましてや高収益企業は大
事にされている。日本のマーケットは成熟しており、どの銀行も同
じような商品で利率も差は無い。そんな中で新たな取引をすると言
うのは、お互い特別な思い入れがあるのだ。
 アパレル企業は利益率が高い業種であるが、利点でもあるが欠点
でもある。売り上げが低下すれば利益は一気に減じるリスクもある。
しっかりとした企業はその仕組みに創業者の思入れと工夫がある。
そして生きているのだ。世相の変化や景気の波に勝ち続けるのは難
しい。この企業の店舗はその当時のアパレル企業の先端だった。
 新規担当者は取引を獲得してから一定期間を過ぎると担当を引き
継ぐ。新しい取引先の獲得が役割なので、そうしないと支店の目標
は達成できない。引継ぐのが前提なので、引き継ぎ後は次の担当の
迷惑にならないよう、接触を我慢して距離を置く。支店を転出して
からは訪問したことは無かった。
「失礼します」と名前を告げた。一目見て相手も誰かを理解したこ
とが分かった。
「君が融資をしてくれたビルのお陰で生き残れたよ。」
 バブルがはじけた時は苦しかったが、購入した不動産を賃貸に回
すことでしのいだと言う。この店だけは残した。やっぱり自分が作
ったブランドだからね、と笑う。
「君が転勤してから代々の担当者に聞いていたんだけど、途中から
分からなくなったよ。お互い年を取ったけど、挨拶を受けてすぐに
分かった。何年ぶりだっけ。」
「30年振りですね。」と答えながら嬉しかった。若い頃の熱意や
仕事が報われて、今の自分も間違ってなかったと言ってもらえた気
がした。


散文(批評随筆小説等) 懐かしい笑顔に Copyright beebee 2019-05-14 18:49:02
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