針女その他の物語 2018・9-10
春日線香

電気ケトルと時計の間に住む老婆が教えてくれた。「お前が眠っている間に雲から女の腕が伸びてきて、窓をすり抜けてお前の顔に透明な手形をつけていったよ。その手形は洗っても落ちないだろう。もう逃げられないよ」


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針女について語らなければならないだろうか。そんなことができるわけがない。私が言えるのは彼女の舌、真っ青なその上に無数の針が針山のように刺さっていることだけであって、他の何一つも許されてはいない。自分ではもう喋ることのできない彼女の腐り落ちた横顔を、風の中から拾い上げて示すだけ。ただそれだけの暗夜の鏡。濁った忘れ沼の星明り。


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棚の整理をすると黒い泥が詰まったビニール袋が出てきた。たぶん玉ねぎか何かを仕舞い忘れたきりで、腐り落ちて液状化したものなのだと思う。袋が破れていれば大惨事になっていただろう。二重三重に包んでゴミに出したあとは、これも消費期限をやや過ぎたマカロニを茹でて食べることにする。泥の詰まった袋が遠くどこかへ運ばれていくことを考えながら、暗闇に吊り下がる胃の重さを感じている。


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川縁の遊水地に子供が十人ほど輪になって佇んでいる。どの子も下着を着ただけの格好でじっと正面に目を向けて、わずかに呼吸しているのが肩の微細な動きでわかる。その輪の中に光の反射が導かれて、光に掠められた子はすうっと消えてしまう。悲鳴すら聞こえない。土手の上から悪魔が鏡を反射させて一幕を楽しんでいる。血の味の煙草を吸って血の味の煙を吐く悪魔。


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校庭のどこかに棺が埋めてあるらしい。まん丸な桃を齧りながら校長が教えてくれたが、僕たちは知っている。棺の中には誰も入っていないのだと。海にさらわれて上がってこない校長を偲んで、教師連が生徒に秘密で棺を埋めたのだと。まだ四十九日も済んでない校長が嬉しそうにかぶりつく桃の汁がたらたらと教室の床に滴って、甘い香りが辺り一面に漂った。


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山間の小道はいつしか畳敷となり、やがて布団の上を行くことになった。枕やシーツに足を取られながら進むのはもはや森ではなく暗い屋内に変わり、果てのない広がりを手探り足探りで行くのは大層恐ろしく心細かった。だが早くしなければ何もかも手遅れになってしまう。家族がこの先で今にも牛鬼に食われようとしているのだ。もう食われて骨の山になっているかもしれないのだ!


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雨風が強いので窓を開けられない。上がっていこうとする室温を扇風機の羽でかき混ぜて、今この時に頭上で輪を描く低気圧の巨大さを想像する。風が窓を揺らし、壁は思い出したようにぴしぴしと鳴る。冷蔵庫のドリンクホルダーに挿さった牛乳パックの底に、冷たく青い犬の目が沈んでいるのを私は知っている。かすかに揺れているのを知っている。


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夜の街に赤い糸が絡みつく。ガソリンスタンドから交番へ、団地へ、駅へ、ことさら明るい信号の数々へ。死も生も絡め取るこの無尽の描線を爪弾いて、絶叫するものがある。絶叫するものがある。絶叫するものがある。赤い糸に包まれた街がさらに死に果てて生まれる場所に向けて、喉を破り尽くして絶叫する天蓋の下で、僕らは真っ赤に閉ざされた眠りを眠る。


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真っ赤に閉ざされた眠りを眠る。その眠りを、彼女は眼球のない穴から覗いている。泥の中で戯れる悪魔や子供たちに向けて、彼女は何かを言おうとしている。針山のような舌で何かを言おうとしている。


         append


闇の中で燃える火よ。泣き疲れた女、マラルメよ。軌道の果てに行き着くことはないと正しく異なるステップで奏でた草花。夢から夢へと遍歴する、酩酊ののちの酩酊、燃え尽きたページをめくる骨の手の群れ。僕らは死に次ぐ死に飽き果てている。さらに夢見の果てにあるテラ・インコグニタ。闇の中で血を吐く手紙、マラルメよ。月夜の月よ、花束よ。




自由詩 針女その他の物語 2018・9-10 Copyright 春日線香 2018-10-04 17:50:56
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