いったいどうしてこんなことを思い出したりするのかね
ホロウ・シカエルボク


冬のさなかのような目覚めだった、なにか夢を見ていたのかもしれない、その夢が心身を徹底的に凍えさせたのかもしれない、猛暑といえども明けたばかりの朝のなかではその牙はまだ剥き出しになってはおらず、冷汗に濡れた身体は震えが来るほどに寒かった、どんな夢だったのか、あるいは夢ではなかったのか、なにひとつ思い出せなかった、もしかしたらそれは、目覚めと共になかったことにされるほどの嫌悪を自分自身に与えたのかもしれなかった、思い出せない、なのに、身体に刻み込まれた感触はそれがただごとではないのだろうことをありありと語っていた、ベッドから降り、洗面台に向かう、顔を洗い、鏡を覗き込む、少し青白い気がする、だけど、「青白い」と取り立てて語るほどのものではない、歯を磨く、朝食は取らないのでそれで正しい、口腔にはなにも違和感は残っていなかった、服を着替え、髪を簡単に整えて外に出る、今日の予定はなにもない、あてもなく歩くだけの日、太陽はほんの半時間の間に回転数を上げ始めている、太陽の真ん中は涼しいだろうか、と、下らないことを考える、それを知ったところでなんになる?自分に出来るのはエアコンの設定温度を出来る限り下げることのみだ、いや、勘違いして欲しくない、そのせいで凍えたのではない、眠るときにはエアコンを消すようにしている、それは原因ではない、だいいち仮にそんな下らない理由であったとしても、冷たい部屋が心にまで違和感やダメージを残すわけではない、いい加減履き潰した靴底の感触が頼りない、きっと今年か来年中には履けなくなってしまうに違いない、おれはあまり靴を買わない、二、三足の靴を数年履き潰して、壊れたら買う、メーカーの名前や、形状の名前などほとんど知らない、スニーカーとか、そんな程度でしか判らない、あまりに暑過ぎてあっという間に汗が滲み始める、汗をかくのはもう少し歩いてからにしたい、古臭い喫茶店に逃げ込む、アイス・コーヒーを飲む、防弾ガラスかと思うくらい分厚い大きな窓は光のみを通す、窓の外は爆発しているみたいに明るいのに、その熱は伝わってこない、一瞬おれは神経に異常をきたしたのか、と不安になってしまう、それはまともなことではない、でも、意識してしまったらおしまいなのかもしれない、昔からそんな些細なことが引っかかるたちだった、おれ以外だれもそのことを知らなかった、そんなことがたくさんあった、下らないことをたくさん記憶していた、覚えている必要などあまりないようなものだった、どうしてそんなことを細かく思い出せるのか、何人もの人間にそう聞かれた、でも当然ながらそんなこと説明など出来っこない、「なんとなくかな、急に思い出すんだよ」と答えておしまいだった、相手はいつも少し怪訝な顔をしたが、でもどうでもいい出来事の記憶だったから、それ以上話が続くことはいつもなかった、そのくせ、他人の顔を覚えるのは苦手だった、このそこそこ長い人生の中で、毎日何人の知人とすれ違っているのか、皆目見当もつかなかった、とはいえそれほど仲良くしていた人間も居なかったし、取るに足らないといえば取るに足らないものだった、店を出る、商店街を歩く、本屋を覗く、いくつかの本を買う、ミュージックショップを覗く、一枚のCDを買う、知らないシンガー、ジャケットが気に入って買った、レコードの時代にはもっとそういうことがたくさんあった、近頃はCDもろくに売れないそうだ、パッケージにこだわらない連中が増えたということは、感性が自堕落になってきたということだ、時代遅れと言われようが、おれはそう考える、皮のない栗をコンビニで買うようなものだ、それは三分の一、あるいは半分が失われた現象だ、ボタン一つで手に入るものなんておれは信用しない、広い、なにもない公園に腰を下ろして歩き過ぎた足を休ませる、石畳の、なにもない公園、昔、もう結構な昔、この広い公園の真ん中には噴水があって、鬱蒼とした木が生えていた、その木々の間を縫うように狭い歩道が通っていて、北側の片隅には鳩舎があり、いつ見ても忙し気な連中が羽をバタバタ言わせたり何事か喋り続けたりしていた、「治安上の理由から」そんなちょっとした森は撤去され、あとには味気ない石畳の広場が残った、あの木々たちは今頃どこでどうしているのだろう、おれは時々そう考えることがある、プールほども大きかった噴水の残骸は、どこで眠っているのだろう、再び立ち上がって歩き出す、時刻は正午になろうとしている、自動販売機で缶コーヒーを買う、すぐに飲み干してしまう、歩道橋を渡る、下らない街のメイン通りの、ほんの少し先が見渡せる、でもその道はどこにも続かない道だ、同じ言葉だけを話す人間が、同じ毎日を、同じように使い潰していく、そうして、出産と葬式だけが繰り返されていく、おれは家に戻る、つけっぱなしにせざるを得ないエアコンに中途半端に冷やされた部屋は不自然だろうか?曖昧なまま進行していく物事たちは正解の感触を残さない、それが正解だと言えばそうなのかもしれないが、おれは例えば三年ぐらいあとになって、今日のことを思い出してこう言うだろう―「いったいどうしてこんなことを思い出したりするのかね」と。


自由詩 いったいどうしてこんなことを思い出したりするのかね Copyright ホロウ・シカエルボク 2018-08-04 22:21:02
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