子よ、おまえに歌を教えてあげよう
ホロウ・シカエルボク


ふたつの盃が並べられていた
そのひとつには、なみなみと酒が注がれ
もうひとつは、空のままだった

そのそばで男は働き、女は子を生した
男は働き続け、女は育て、子はすくすくと育ち
そうしていつか、二人のもとを離れた

男は働き、女は飯を炊いた
ときおり、残り火を確かめるように抱き合ったけれど
もう、子を授かることはなかった

ある強烈な夕焼けのころ、男は力尽きた
女は男の手を取り、彼の最後の呼吸を静かに見て取った
月は切傷のような三日月だった

女は祈り、自らを生かすためだけの暮らしを続けた
それは簡単な縫物を作って売ることだった
彼女一人が生きるにはそれで充分だった

二人が三人になり
また一人になってしばらくが過ぎた頃
出て行ったものがまたそこに帰って来た

出て行った時と同じたった一人だった
それまでそこに居た女はもう居なくなっていた
帰って来たものはたった一人でそこで暮らし始めた

帰って来たものはあまり働かなかった、いや
何度かは働いたけれど、上手くやることが出来なかった
帰って来たものはそのうちに何もしなくなった

火をともす油がなくなり、住処は夜になると外よりも暗くなった
帰って来たものの目だけが時折、ギラギラと輝いた
帰って来たものは眠らないものになった

眠らないものはただ起きているだけだった
暗闇の中で何事か考えているようだったが
それはあまり具体的な物事ではなかった

やがて眠らないものは遥か昔
そこで三人で暮らした時のことを深く思い出すようになった
これまでの人生で思い出したことすらないようなことまで思い出した

眠らないものは眠らない時間を
そうした欠片の集合のなかで過ごすようになった
やがて眠らないものの時間軸はおかしくなり、眠らないものは壊れたものになった

壊れたものは明け方に決まって酷い叫び声を上げた
まるで住処が明るくなるのを恐れているみたいだった
光のある間はずっと俯いて過ごしていた

壊れたものは思い出したようにわずかなものを摘まむだけだったので
たまにどこかでくすねてくるもので充分足りていた
壊れたものはあまり食うことに執着しているようには見えなかった

壊れたものは雨が激しい夜には妙に浮かれて
汚れた身体から存分に雨を滴らせて満足げに笑っていた
そのさまはまるで動物のように見えた、すべての動物から外れた動物のように

壊れたものは不思議なほど丈夫で
たまに風邪をひく以外にはたいした病気もしなかった
壊れたものはもうずいぶん長く生きていた

初めにそこに居た二人よりも遥かに長く生きたころ
壊れたものはやたらに陽の光の下に居るようになった
椅子や寝台のほとんどがいまでは外に出されていた

住処はあらゆる場所に鼠が住みついて、もう使い物にならなくなっていたが
壊れたものにはそんなことはもうどうでもよかった
一日中上を向いて太陽の中にあるものを眺めていた

壊れたものは一日に数度、あたりに生えている草をそのまま食った
そうしているうちに不思議なほどに
肌の色がよくなり、動きもしっかりとした

壊れたものは太陽を見、雨を見、雷を見、雪を見た
そのすべての名前を思い出すことが出来なかった
渇くことを喜び、濡れることを喜び、光ることを喜び、冷えることを喜んだ

壊れたものは時々歌をうたった
それは先にそこに住んでいた女に教えてもらった歌だったが
そんなことはもう微塵も覚えていなかった

その声は少年のように高く澄んでいた
どんな空の時でもその歌は聞こえた
景色のように淡々と流れていた

途方もない時が流れて
壊れたものはもうぼろぼろの寝台の上から動くことはなかった
もううたうことも出来なかったが唇は僅かに旋律を辿っていた

壊れたものの呼吸がたった一人で止まるとき
壊れたものの脳裏にそれまでの人生が色となって蘇った
その膨大な色彩のなかで
壊れたものがたったひとつ見つけたのは果てしない絶望だった
壊れたものは悲鳴を上げようとしたが
そんな力はもうどこにも残っていなかった

壊れたものが朽ちた寝台の上で躯になり
薄汚い肉の塊になり、それから
枯れた枝のようになって風に消えた後
ふたつの盃のひとつの酒はこぼれ
空の盃には小さなひびが入った
壊れたものの骨がからんと音を立てて寝台から地面に落ち
それ以上のことはもうなにも起こることはなかった





自由詩 子よ、おまえに歌を教えてあげよう Copyright ホロウ・シカエルボク 2017-06-12 22:52:59
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