批評05/3/9
黒川排除 (oldsoup)

六崎杏介『重力と火』
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=18384
みい『ぬるっこいサンプル』
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=28910
ベンジャミン『睡蓮』
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=32764
オリコ『秋葉原』
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=24648

頼まれてもいないのに何かをやるということには非常に魅力があって、人間はそれに打ち勝つことが出来ない。というのは言い過ぎだとしてもパラドックス的な衝動は傍目から見るとやぁねぇあのひと、と言われる危険も孕んでいるのだがそういう衝動に全速力で突っ込んでいく人間がいる。おれだ。頼まれてもいないのに批評らしい文章を書いてみようと思ったのがさっきで、今やってるわけだから、このエネルギーを別のことに使えば頭を良くしたり体重を減らしたりできるのかもしれないが、とりあえずやろう。でやるにあたって当然頼まれてもいないようなものをひきずりだす必要があったわけで、別段指定もないひとたちの純真無垢な詩を拉致ってきた。ずっと昔は批評は余ってたぐらいにあったということだが、今はどうかと言うと、少なくともここ現代詩フォーラムではあまり多くは見られないわけで、そういった意味でムーブメントにのってみるのも一興かと存じまして、えーっと、多少の考えおおむね勢いでやっていくよ。ガンバ。とこんな調子で改行無しにさっきから書いているわけだが見にくいだろうか、見にくいだろうと思う、特におれの文章は読みにくいだとかなんだとかそういったことで不評なんだが、これに限らず改行のない文章というのは見にくい。詩というのは意図的にそういう向きを狙っている作品がある。多少を別にすれば半分ぐらいはそうだ。読みづらいことによって日本語すなわちコトバの慣性というかダルい感じというか一定な感じを打破しようじゃないかっていう。そういった作品は極端になればなるほど読みづらいわけだ。六崎杏介の『重力と火』なんか特にそうだ。ぱっと見、読めない。詩はぱっと見で読むもんじゃねぇと怒られそうだが、だとしても文章の構造をなしている箇所がほとんど見受けられない。彼(全員めんどくさいので彼よばわりするが)の詩はそこでまずひとつ「狙って」いる。一見無規律な文章や詩や書き物は自動記述かと思わせるが、実は自動記述のほうが幾分ましだ。ここで読むという作業から解くという作業に入らざるを得ない。彼はこれを待っているのだ。彼の詩は土台を圧縮された連想においている。要するに彼の歩いた道に偽装を施しておくからそれを歩けというのだ。それは容易なことではないにしろ彼自身の思考には深く食い込むのであって、よって何が書いてあろうと六崎杏介の詩ではもっぱら彼自身が相手なのだ。こういった、文字から意味を暴力的に剥奪するような方法は、しかしおれの好きな手段のひとつであるので、おれは多少の親近感を覚えはする。とはいえ最後の逆十字架もどきは言葉遊びが過ぎるが。さてさて親近感というもので詩が読めるわけではないが接近しようか、すまいか、という意思を決定するものにはなりうると思う。題名とか詩の冒頭部分で感覚に訴えるものが、おそらく万人にある。だから親近感を感じない作品はおれはあんまり読まないのだが、みいの『ぬるっこいサンプル』などはまさにその一例だと思う。こんな紹介の仕方かよ。おれなんか死んでしまえ。まぁしかし先程も言ったように親近感で詩は読むものではない。一読してこの作品はそれっぽい表現を各々の言葉の糊としている面がある。それっぽい表現とは何か。それが言えたらそれっぽいだなんて言ってないのだが、ちくしょう! 愛だというものを、死だということを、冷たいということを、直情的にかき集めているような表現と言ったら変だろうか、とにかく直情が上から下から走っていて、それをぼかしているのが、1番から6番までの節に分けてるところとか、行間の広さに見て取れる。で・そういう広さが散漫な感じを与える。昔は直情と言われていたものがまんべんなく広がって薄くなったようなところをもってきて、ファミコンであるとか台所であるとか焼き魚という箇所でいきなり俗っぽく急接近してくるのでびっくりする。しかしこのへんを突き詰めていくと段々ケチをつけているだけのように思えるのでもうやめた。あと読点ばっかり使っていて句点がかわいそうだと思った。あいつも頑張ればできる子なのに。ところで再び行間のことを考えてみるならば、一行以上の行間というのは何に使うのだろうか、という疑問にぶち当たる。特に番号振って分けるぐらいなら場面の大分割・小分割的な役割か、それとも効果か。例えば一行開いているものと二行開いているものと三行開いているものがあって、それを一行ずつのリズムで読むのか、それとも広さで二次元的に認識するのか。それが分からない限り少なくともおれは行間の広さに関して興味は持てないが、ベンジャミンの『睡蓮』にはそこのところが明確に見えている。この詩には睡蓮で思いつく大概のイメージが与えられているようで、そこに擬人化を施しあなたと呼びつけ睡蓮の持つ味を引き出そうとする努力が見られる。水との対比によってあなたが徐々に浮かび上がっていく様子だ。それで最終行手前に二行行間がある。決め台詞ですよズドプチーン的なものだということが明確だというわけだ。睡蓮とあなたには一定のかかわり合いがあるけれども、それはほとんど語られることがなく、行間に語りを託しているように見えるため、おれはさっきから行間行間ギョーカンと言っているわけだが、それにしては二行も含ませたあげくのズドプッチーン的なものが弱いのではないかというのが素直な印象である。どうも妥協が見られる。二行を開けることによる期待の大きさに妥協は許されないのであって、まぁ本当に妥協したかどうかはともかくとしても、最終行のユルさは残念と言うほかない。行間に効果を期待しすぎるとこういうことになるのではないか、というのが行間に対するおれのひとつの見解であって、韻律というかリズムというかその辺に関してもそれは同じなのではないかと思う。リズムに乗せるのとリズムに乗るのは違うのであって、そういった観点からオリコの『秋葉原』を読んでいこう。おれのバイト先ですが。リズムとして敷かれているものはわざわざおれが言うまでもなく五七五調だけども、全編それに徹しているというのは面白いのかどうか。おれは五七五にあんまり親しまないので、あんまりその見解に首を突っ込むと首ごともぎ取られそうだが、ちょっと寄りかかり過ぎなのではないか。とまず感じるわけだね。彼はそれに頼りすぎるあまり意外性を捨ててしまっていることに気付いているだろうかとさえ感じる。だから五七五のやつは抜いて考えることにすると、この詩はまるで地図のように見える。別に地図に問題があるわけじゃないが、地方に住むおれにとっては妙に疎外感がある。地元のひとだと面白いのかもしれないが、未知の言語があんまり出てくるとまず実感がわかない。水を掴んで残った水滴をかろうじて見るがごとくだ。分からない文字があれば辞書で引くが、分からない地名をたくさん出されても調べる気にもならない。この詩はそういった面から読者を削っている。それがたまたま秋葉原、秋葉原って東京だったよね、東京の地名だったから共感出来る人間が多いだけの話だ。要するに最初に紹介した六崎杏介の態度とは正反対のものを感じるわけだ。そういった態度が悪いかというとそうでもない。しかしローカルだということだ。三度繰り返すようでうっとうしいかもしれないが、ご体裁のような行間には、しかし、根底にサビのようなものを意識させられるのであり、そういった意味ではこの詩は童謡なのかなとも思う。童謡というのは地方のことをうたっていながらも力強く全国に根付いていく。この詩が必ずしも、そうある、とは限らないが、しかしその力強い根は皆が求めているものでおれも求めているよ、という話を結びにして、批評を終わろうと思う。


散文(批評随筆小説等) 批評05/3/9 Copyright 黒川排除 (oldsoup) 2005-03-09 02:56:25
notebook Home 戻る