無題
伊藤 大樹

些細なことから、それまで喫んでいた煙草を消し、彼は帰路を辿った。

冬も近い秋の日である。彼の意識は殆ど寒風に向けられていた。所々解れたセータ一に身を包み乍ら、然し彼は一層溌剌として、凜たる街中を歩いていった。

宅に着くと、既に夕飯時となっていた。彼は咄嗟に空腹を思い出して足早に食卓に就いた。食べ終えると、彼は率先して兄弟たちのぶんまで皿洗いを済ませ、怪訝そうにしている兄弟たちを横目に、鞄から文庫本を取り出し読み始めた。

そんな彼の急激な変化を何より訝しんだのは兄弟たちであった。文庫本の文字列に向けられている彼の視線を、或いは窺き込んだり、或いは彼に根気よく話しかけたりしたが、その度に彼は顔をあげ、兄弟たちの表情を一瞥すると、忽ちもとの文字列へ視線を戻した。そんな有様に、兄弟たちは訝りながらも、次第に揶揄うのをやめた。

然し、黙っているのも時間の問題であった。彼は、余計な面倒を招かぬようにと思って、実はひと月前から仕事を始めたことを兄弟たちに明かしたのである。

長く、その懶惰から親の脛を齧ってきた彼は、ふた月前、内心忸怩たるを覚え、遂に苦労の末、辛辛、好条件の職を見つけたのである。

彼はまた、そのことをいつ兄弟たちに報告すべきか、洵に肝を摧いていたのであるが、反面、それを聊かも噫気にも出さず、ただ時の適うを待ち侘びていたのであった。


散文(批評随筆小説等) 無題 Copyright 伊藤 大樹 2016-10-16 10:36:42
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