ことしの夏は のこと
はるな


夏はなんだかすごくさびしかった。これまではそんなことはないのに。さびしくなるのは冬か秋か春と相場が決まっている。
いろんなものが取れかけているわたしは、また色々のことを思い出す。思い出したり、考えたりする。日々の、たとえば玉葱を買い卵を買い食器用洗剤を買い柔軟剤を買い、かぶとむしたちのゼリーを買い靴クリームを買い柚子こしょうを買いおむつを買いヘアピンを買い花の栄養剤を買う、それぞれの品物を選ぶその一瞬ごとに、ちがった、ふるい、以前あった出来ごとを思い出す(あるいは考える、それは過去であったりなかったりする)。
坂道を上って下り、もうひとつ上り、それも下ると駅に出る、ICカードにチャージし改札を抜け(むすめが「ぴっ」と口真似をするのがかわいいのだ)エレベーターもしくはエスカレーター(エスカレーターにベビーカーをのせないでくださいという案内を無視する)を使って上がりあるいは下がり、電車に乗り電車を降り、来たときと似たような手順で改札を抜け(やはりむすめは「ぴっ」と口真似をする)、駅を出る、そのひとつひとつの手順に生じる隙間に思考はこぼれおちる。
色々のことを思い出す。というのはつまり、忘れていたということで、それは生きることが恥ずかしいことだということ、あらゆる物事の困難さ、無価値さの美しさとわたしの無力、すべてが「すべて」ではないこととか、不安たちと断絶。
むすめといると困らない。それが発見だった。なにも困難じゃない。ということに、困難さを思い出してはじめて気がついたのだった。
むすめの肌がだんだん離れていく。上手に走っていく彼女の髪も脚も伸びて、それは喜び。でも夏がゆくなかでわたしはさびしかったのだ。これからどんどんさびしくなる。でもそれはやっぱり、恐ろしいとか困難なこととは別のことなのだ。
それはわたし自身の問題で、その証拠に、むすめが伸びた髪を絡ませながらこっちを向くとき、彼女のためにしてはいけないことはなにひとつないように見える。


散文(批評随筆小説等) ことしの夏は のこと Copyright はるな 2016-08-31 23:31:35
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