空間的記憶について
天才詩人

文学極道(bungoku.jp)に投稿された澤あづさ氏の『ひふみよ』という作品をブログ上で批評するという約束をしたのですが、分量、内容ともに正面から突っ込んでいくと時間切れになるのは必至なので、今回は2つの個人的なエピソードをさしはさんで、ラフに書いてみようと思います。

http://bungoku.jp/ebbs/log.cgi?file=485;uniqid=20160707_577_8946p#20160707_577_8946p

一つ目。数年前に文豪のガルシア=マルケス氏が逝去しました。そのニュースが入ったとき僕はとある田舎のキャンプ場にいて、近くの街角の雑貨屋兼レストランのようなところで何人かの友人とビールを飲んでいました。ちょうど聖週間(セマナサンタ)の休日で、日本ではゴールデンウィークに入る手前だったと思います。日本在住のラテンアメリカ文学マニアの友人が、携帯にメッセージを送ってきました。「ガルシアマルケス死んだねー。そっちの反応はどう?」。

僕はコロンビアにしばらく滞在したことがあるのですが、市井の人々の間でガルシア=マルケスの存在はそれほど大きなものではありません。マジックリアリズム(realismo mágico)という言葉も、コロンビア社会の憂うべき極端な貧富の差を揶揄したり、観光客向けのキャッチフレーズなどでごくたまに目にしますが、それほど頻繁とはいえません。日本でも、誰もが三島由紀夫や大江健三郎の話ばかりしているわけはないので、よく考えたら当たり前です。

ところがその日本の友人はガルシア=マルケスという、彼にとっては一大スターである人物が亡くなったことに大きなショックを受けていて、さぞこっちでも大きな騒ぎになっていると考えている様子でした。ガルシア=マルケス逝去のニュースは、僕が一緒にいた人たちのあいだでも話題にのぼりましたが、ほんの数分間だけで、すぐにいつもの四方山話に戻りました。休日の行楽地で、にぎやかなラテン音楽が流れ、人々が踊り、テーブルには空のビール瓶が何本もならんでいるという状況でのことなので、仕方ないといえば仕方ないかもしれません。

二つ目はもっと個人的な話で、僕は、映画を観たり本を読むのは好きなのですが、残念ながら、読んだ作品や観た映画は、そのときどんなに没頭しても、内容はすぐに忘れてしまいます。そういう理由から、映画の話題になって「○○観た?」と聞かれるといつも困ります。その反面、自分でもよく覚えているなあと思うのが、本を読んだり映画を観たとき、自分がどんな場所に、誰といて何をしていたか、ということです。つねに思うことですが、人間の記憶というものはけっきょく、空間的なものに根ざしている。つまり、ある場所や場面で読書をしたり、映画を鑑賞することは、その物理的な場所や感覚を喪失・忘却することではなく、より鮮烈に体験することである。

どこかで前にも言った気がしますが、僕が作品の良否を判断する拠り所のひとつとして、この記憶の「鮮烈さ」という問題意識があります。そして、澤あづささんの「ひふみよ」は、彼女の前作や前々作から一転して、その基準をクリアしてあまりある出来ではないかと思うのです。


散文(批評随筆小説等) 空間的記憶について Copyright 天才詩人 2016-09-03 08:16:49
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