「正論」とかけてポルノととく、そのこころは?
動坂昇

 最近「正論」という言葉は、本来の定義から離れて、次のような意味で用いられるようになってきた。
 すなわち「道徳的観点から言ってはいけないとされてきたから自分は言うのを我慢してきたが、本当はずっと言いたかったこと」または「誰か言ってくれないかと思っていたこと」だ。
 この用法は、とくに政治、経済、歴史の話題のなかでも戦争、犯罪、貧困、差別に関してみられる。
 しかし道徳的正義に反するのであれば、その「正論」はどのような意味で「正しい」のだろうか? 
 その「正論」の「正しさ」は、今それを「正論」と呼ぶ人々にとっては、「現実」に基づいている。
 言い換えれば、そうした人々によれば、道徳的正義は理想あるいは子どもじみた夢にすぎず、それを追いかけていてはうまくいかないので、ときにはそれに反した行動をとってでも「現実」のパワーゲームに勝っていく方策をとるべきだという。
 ではそうした人々の捉えている「現実」がどれほど真実なのか、実際の事実にどの程度即しているのか、ということが問題だ。しかし検証すればするほどはっきりしてくるように、そうした人々は実際の事実を無視しがちであるか、あるいはその事実を現在進行形で生きているか過去に生きたことのある当事者について十分に見たり聞いたり調べたりしていないにも拘わらず、「客観的判断」なるものを下している。このように事実や当事者を無視または軽視しているからには、その「客観的判断」はたいてい単なる欲望のみに基づく妄想にすぎないといえる。
 つまり、いま自称にせよ他称にせよ「正論」と呼ばれるものは、たいてい、事実を無視して自らの欲望だけで構成された妄想を「現実」と呼びならわしながら、そこへ向けて力を使っては他者をねじ伏せることを正当化する主張だ。
 そうした主張を自ら行う人々は、自らの主張が道徳的正義にそぐわないということを自覚しているからには、背徳感を覚えながら、そんなことを公衆の面前で言ってみせても平気でいられる自分の力に高揚感すら抱いているのではないだろうか。
 ならば、「正論」は、ポルノでなければなんだろう?
 事実に反することを「現実」と言って憚らず自らの力を行使して誰かをねじ伏せることを正当化する主張とそれを欲望する人々は、ポルノとその熱狂者たちそのものではないか。
 そういうものがこの世にまったく存在してはならないとは言わない。そうではなくて、そういうものがいま大手を振って公衆の面前を歩いているということは、問題ではないだろうか。
「表現の自由」「思想の自由」「相対主義」、けっこう。
 しかし現在の状況では、それらが完全に保証されているのは強者だけだ。ならば、その状況でいわれる「表現の自由」というスローガンは、実際には「強い者が弱い者を無視しながら自分の言い分こそを真実であるかのように偽って自分勝手に広めることができる」ということを意味するのだから、それは「自由」ではなくむしろ専横や独裁と呼ばれるべきだ。


散文(批評随筆小説等) 「正論」とかけてポルノととく、そのこころは? Copyright 動坂昇 2015-02-21 09:58:04
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