『風立ちぬ』をめぐって
動坂昇

 きのう宮崎駿『風立ちぬ』を見た。二度目。感想をメモ。

 純真素朴な天才がいかに戦争に利用されていくか。その様子が描写された映画。

 二郎は才能と純真さによって呪われた人間だ。

 二郎はものをつくることにかけては天才的だが、それ以外のことができない。自分を買ってくれるひとびとにその非常に専門的な才能を切り売りして生きるしかない。
 特高に追われて危険にさらされかかっているときもそうだった。このとき社長は二郎に「きみが会社に大きな利益をもたらすうちは、会社はきみを全力で守る」といった。これは非常にシンプルな論理だ。人権は関係ない、まず利益だというわけだ。だから彼は生き延びるために、人にとって、会社にとって利益を上げられる人間であろうとする。才能を用いて。
 しかしその才能はもともとどこまでも純真素朴な憧れによって動機づけられていた。それがあらためて二郎のなかで確かめられる瞬間もある。菜穂子に愛を告げる前、二郎が自分のつくった紙飛行機を彼女とのあいだでやりとりするシーンだ。この子どものような戯れのなかで、彼から彼女への愛は固まっていく。というのも、彼女は飛行機を飛ばすことへの憧れを彼に取り戻させてくれたからだ。

 二郎は、生き延びるために、美しいものへの憧れを原動力として、その美しいものをつくり、人の役に立とうとする。そして、それによって現実を見ようとしない。
 彼の同僚の本庄はわざわざ二郎と自分自身に言い聞かせるように「俺たちは武器商人じゃない、ただ美しい飛行機を作りたいだけだ」と言う。しかしそれでも、二郎たちのつくって売っているものはやはりどこまでいっても武器である。実際、それはただ飛ぶだけのものではないのだ。それほど速く飛び、それほど速く旋回し、それほど速く対象物に弾を撃ち込むことのできるものが、武器でなければ何だというのか?
 だが彼はそのことを忘れようとする。それを使っているものたちのあいだでは、こちらが生きればあちらが死に、こちらが死ねばあちらが生きる。そういうものをつくっているのだということを、彼は自分の憧れの世界に退却することによって忘れようとする。なぜなら、憧れから覚めれば、つくることをやめなければならず、そしてつくれなくなれば、自分は人の、会社の、国家の役に立たなくなり、死ぬしかないからだ。
 
 二郎はいわば生きるために部屋から這い出てものをつくる精神的な引きこもりだ。それがよくわかるのは、彼が本庄に「どこと戦争するんだっけ?」と尋ねる瞬間だ。二郎は新聞をまったく読まず、ラジオを聞くこともない。もちろん時間がないとか、いくらでも言い訳は立てられるだろう。だがそれ以前にそもそも彼のなかには社会への関心が存在しないのだ。とくに菜穂子があらわれてからは、彼の関心は、飛行機と菜穂子にしかない(その菜穂子ですらも、彼は、黒川夫人のほのめかすように、綺麗なところしか見ていないのだが)。あとは彼にとっては混乱していてよくわからないのだ。
 このような性格は、90年代末から2000年代にかけて漫画やアニメによく登場してくるいわゆる「セカイ系」の主人公に近い。ロボットと、「きみ」――それが「ぼく」にとっての世界大の問題だ。あとは混乱していてよくわからない。というより、その混乱を注視しながら、諸々の事象を自分なりに整理して社会のイメージを構成しようとしない。
 監督がこのような人物に対してまさに「セカイ系」の代表作『エヴァンゲリオン』の監督である庵野秀明の声を当てているのはきわめて批評的だといえる。庵野は宮崎にとっては素人くさいというよりもむしろ象徴的なのだ。実際、庵野はかつて宮崎から「人物をかけていない」と言われたときに「自分のなかに他人がいないんです」と答えている。
 こう考えるとこの作品は恐ろしい射程をもってくる。まずパトロンに尽くすしか能のない技術者や芸術家の絶対的な弱さに対する常時の批評があり、「セカイ系」文化から目を覚ますことのできない人間に対する臨時の批評がある。
 
 もうひとつ論点がある。それはこの『風立ちぬ』が『紅の豚』と対を成しているということだ。
 そのことは、布団にもぐっている菜穂子が夜中に仕事をしている二郎の横顔を見つめる場面にも見て取れる。この場面は、フィオが夜中に銃弾を点検しているマルコ(ポルコ)を見つめる場面と、まったく同じ角度と構図で描かれている。
 あるいは、最終場面で、二郎のつくった零戦たちが群れをなして飛びあがり、空に一方向を向いて広がる飛行機の大群のなかに加わるところに注目してもよい。あれはマルコがフィオに語って聞かせる物語のなかに登場する「飛行機乗りの墓場」そのものだ。
 しかし重要なのは類似性よりも差異である。その点では、マルコの旧友フェラーリンが、ファシスト当局に追われるマルコを心配して、空軍に戻ってくるよう勧めたあとのせりふが思い出される。「国家とか民族とか、くだらないスポンサーをしょって、飛ぶしかないんだよ」。これに対してマルコは次のように答える。「俺は俺の稼ぎでしか飛ばねえよ」 他方、二郎は、その稼ぎを会社を通じて国家からもらうのだった。
 マルコが、国家の求める英雄像をいやがって自分に呪いをかけて豚になったという点でアンチヒーローとして逆にひとのヒーローたりえている一方で、二郎はその資格をもっていない。二郎は、実際には国家的英雄からかけ離れているにもかかわらず、いつ国家的英雄と祭り上げられてもおかしくないほど無防備だ。実際、零戦をつくった技術者としての後世の名声はそういうものだったではないか。
 空への憧れを共有していながら、ふたりはまったく異なる人物像である。
 仮に、マルコが憧れを追いながらもしたたかに立ち回るこで呪わしいものに利用されずに生きる理想の主人公像であるとすれば、二郎はただ憧れを追うことしかできず自分にとって大切ないのちを守り抜けないうえにその憧れによって大量の死人を生み出した批判されるべき主人公像である。
 
 宮崎監督はまさしく批判を引き起こすためにこの映画をつくったのではないか。


散文(批評随筆小説等) 『風立ちぬ』をめぐって Copyright 動坂昇 2015-02-21 09:46:17
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