That's Me
深水遊脚

 いまだに雑味というのがどのような味なのか分からない。多分コーヒーの味を科学的に分析した本を棚の奥から引っ張り出して調べれば書いてあるのかもしれないが。雑味というのは自分が求める味を邪魔する味のことだと考えると、求める味が主観的なものなのだから、そこから排除される雑味もまた主観的なものなのだ。それは本に書いてあるものとは違う。推敲された結果出来上がる詩と、その際にできる切削屑のようなものだと直喩で考えるなら、それは詩人の数だけ存在する。ならばむしろ詩集を手に取った方がコーヒーを語る言葉に出会えるのではないか。

 コーヒーに限らず本に書いてある通りの味を感じたことは、多分ないのだと思う。そう思えるようになったのは最近のことだけれど。時間と成分を細かく切り刻んだ言葉は、そのまま吐き出せばいいわけではなく、切り刻まれた言葉ひとつひとつに記憶を宿す作業を自分なりにすることになる。誰かの作業のコピーは人を退屈にさせてしまうかもしれない。そのことを考えすぎると自分のすべてが借り物みたいに感じられ、消えてしまいたい気分にもなってしまうが。

 人が雑味と感じる味についてはわかる気がする。人のためにコーヒーをいれることも多くなったけれど私のコーヒーを飲む羽目になる犠牲者はまだ少ない。などとわざわざ自虐的な言葉を選ぶことはないけれど、立ち居振舞いと一緒で自分がよかれと思ってやっていることが誰かを逆撫でしていることはそう珍しいことではない。幸い私のコーヒーを飲んでくれる人たちは正直だ。正直な感想は分かりやすい。「苦い」「渋い」端的で分かりやすいこれらの言葉が2割、声の調子が4割、表情が3割、関係のない会話から察することが1割。その場にいれば10割がわかる。いや、いるだけでは駄目かもしれないけれど。それに10割知る必要もないのだろう。

 関係のない会話から察することが7割くらいになるとしたらコーヒーをいれることは、私には苦行にも思える。喫茶店のマスターがいとも簡単にそれをやってのけている姿をみるのは好きだ。それを見るためだけに喫茶店に行きたくなることもある。けれど会話という形でそれに参加しない私が疎まれているのを何となく察してしまうのだ。そのくせコーヒー豆の注文のメールにはちょいちょい要らぬ雑談を書いてしまうアンバランスさ。それについて説明するために無駄に言葉を重ねるのは私にとっても疲れること。お店の変え時なのかもしれない。このエッセイはフィクションであり実在の人物、団体などとは一切関係ありません。

 美味しいことは、雑味がないことではない。たぶん。



散文(批評随筆小説等) That's Me Copyright 深水遊脚 2014-11-23 09:06:29
notebook Home 戻る  過去 未来
この文書は以下の文書グループに登録されています。
コーヒー散文集