海と星
sample

なんども息を吹きかけて。熱いチキンドリア。周縁からスプーンで崩しながら口に運んでゆく。お水とって。コップに水、を注ぐ。水、を飲む。また、なんども息を。冷めるまで。そのくり返し。飲食、するあなた。その体。その、開かれた口。口の動き。咽喉の動き。胃の動き。沼。沼のほとり。沼のほとりに犬。首輪のついた犬。びっこをひいた犬。名前をおしえて。Vega。名前はヴェガ。ヴェガの肢は泥だらけ。乾いた泥の肢を、またあたらしい泥にまみれさせながら、沼のほとりを歩いている。ヴェガ。その肢だけを除けば、白く艶やかな体毛と薄葉のように繊細でうつくしい耳を持っている。ヴェガの濡れた鼻が微動する。ヴェガは香気を選別する。隠微な花の匂い。青い雑草の匂い。腐った淡水魚の匂い。冷たい子どもの匂い。冬の匂い。ヴェガは腹を空かせている。力なく、また。歩いてゆく。どこへ。ヴェガ。その、この夜にもっとも輝く星の名を、与えられたと知らされぬまま。ヴェガ、もう疲れたんだね。眠ろうか。幾千の星が小さな死を営んでいるあいだに。灯台のあかりは海を照らしつづけた。あなたの枕もとのあかりは、パチン。と消えた。あなたは眠る。そのうちすっかり丸くなる。とても小さな鉄になる。夢はあなたを見ている。鉄になったあなたの背に夢が触れる。あなたの冷たさを、夢は物語ることもせず、記憶することもせず、ただ、その手に触れる。小さな死に触れる。ことさらに沈みゆく、あなたの眠り。夢はもう、あなたに触れることはできない。いつか、あなたは言った。夜はただ穏やかに、目をつむり、海を招きいれ、扉を閉める。鍵はもう赤い魚に飲み込まれてしまったから、わたしの夜は開かれるけど、そこにはもう、わたしはいない。冬の匂いだけが、窓辺で見えない星を見ている。ヴェガ。うつくしい目をした夢。ヴェガ。風の音を聞いている。ヴェガ。その四肢は波に洗われて、熱い体温を冷ましている。舌を垂らし、尾を丸め、ゆっくりと波打ち際を歩くヴェガ。まだ、腹を空かせて。遠くに小さなあかりが見える。こちらを照らしている。それは徐々にこちらへ向かってくる。人間の匂いだ。けれど、知らない匂いだ。あかりが一瞬、ヴェガの体を包んで、通り過ぎていった。規則正しい歩行だったが、肉、ばかり摂取している人間の匂いとゴム長靴の匂いが混じり合って、少し厭な気分になった。ヴェガは少し走った。空はもう白み始めている。砂を蹴ってゆく音が母の胎内で聞いていたノイズに似ていた。ヴェガは岩場の上にいた。ヴェガが水面を覗くと、そこには赤い魚がより小さな魚を捕食するために飛び跳ねていた。ヴェガは腹を空かせていた為に、その赤い魚を喰らいたいと思った。そう思ったときにはすでにヴェガの牙には赤い魚の血で濡れていた。血はとても熱かった。口の中や舌の上がその熱さで溶けてしまうような気がした。それでもヴェガは大きな口を開けて、魚を捕らえては、食べ、熱さに苦しむことをくり返した。ヴェガは大きく口を開けながら、人間はこうやって大きな口を開けて物を食ったり、鳴き声をあげながら笑うことを知っていた。ヴェガの体毛は潮水に濡れ、より光を反射し、輝いていた。この赤い魚を食べつくしてしまったら、少しだけ眠ろう。ヴェガは肢を折り曲げ、顎を岩場に置いた。石の冷たさが、心地良かった。ヴェガはそこで初めて海を見た。潮風の匂いを感じた。ヴェガの目に見えるものすべては灰色だった。しかし、魚が赤かったことも、この海が青いこともヴェガは知っていた。空はどうか。ヴェガ。そう呼ばれた気がした。ヴェガは、もうそんな名さえ忘れていた。




                   
即興ゴルコンダ(仮) 2014.11.20


自由詩 海と星 Copyright sample 2014-11-20 03:30:44
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