詩のしくみについて
たま

詩のしくみについて

まず、詩と、死のちがいについて。
息苦しくなる。妙に胸が痛くなる。そうして間もなく心肺停止状態に陥り死ぬ。理由はさほど問題ではない。心不全ということで一切が丸く収まる。保険も貰える。
詩、もしくは死。同音異語という。雲と蜘蛛。海と膿。非常にややこしいと思うでしょう。でも、あなたはそんな人生をもう何年つづけたでしょうか。もうすっかり、聴くことに疲れていませんか。しゃべることに疲れていませんか。
聴くこともなく、しゃべることもなく、生きていたいというひともいるはずです。だからというのではありませんが、死にたいと思ったり、詩を書いてみたいと思ったりしませんか。
詩を書きつづけていると死にたくなりませんか。
しいではありません。しです。
同音異語は時々、同音同語になります。それで、詩のしくみはそのあたりに隠れているような気がするのです。

詩と死を見比べてどちらを選択するか。
生きるためには詩です。
蜘蛛と雲を見比べてどちらを選択するか。
殺そうと思ったら蜘蛛です。
海と膿を見比べてどちらを選択するか。
死のうと思ったらどちらも正解です。
神と紙を見比べてどちらを選択するか。
生きるためには紙です。
さあ、もうおわかりですね。
詩のしくみ。

え? だめですか? うーん、もうすこしやさしく説明することもできるのですが、そうなると、わたしとあなたがこの地上のどこかで出会わなければなりません。でも、そんなのって面倒でしょう。どうせ会ったとしても、オジンとオバンなんだから。やめましょうよ。
まぁ、それは冗談ですが、実はお会いすることができないのです。わたしも、あなたも、もうすでに死んでいるのです。詩人は同音異語の世界で生きつづけることはできません。詩人は詩と、死を分かつことはできないのです。詩(イコール)死でなければいけません。アルコールではだめです。
でも、現前にはわたしたちが生きていることを、文学的素養の豊かなあなたは知っていますね。そうでなければお話しがつづきませんし、わたしもちょっと辛いです。
では、ぼちぼち本題に入ります。

この世でいちばんふしぎなものはことばです。
なにがふしぎかというと、死んだらしゃべれなくなるからです。しゃべることが生きていることの証なのです。ということは、ことばはいのち、ということでしょうか。たぶんそうですね。
しゃべることと聴くことは同音同語といえます。通訳する能力は基礎的な部分に本能として組み込まれていて、ひとと猫であってもおなじです。宇宙人はわかりませんが。
ですから、必要最低限の音声があれば、しゃべるということになります。音となると楽器もそうかもしれませんが、楽器はわたしが死んでもしゃべります。ようするに体温のある音声でなければということです。あ、そうなると宇宙人だって体温があればOKということになって、じゃあ、宇宙人はどんな詩を書くのかということになりますが、残念なことにその存在を照明するものがないのです。
同音同語の世界というのはある意味、わたしのでっち上げですが、詩(イコール)死であるというイメージをじっくり時間をかけて、こねくりまわしていると、もうどっちでもよくなってきます。その状態で、詩を書いてみたら、紙も神もおなじ、蜘蛛も雲もおなじ、愛も藍もおなじ・・・。という世界にしか存在しない詩に出会えるでしょう。傑作が生まれるかもしれません。しかし、それは希望的観測であるということ。

同音異語は通訳という能力によって維持されています。それはひとと猫の能力に差があったとしても、前述したように基礎的な部分ではおなじです。猫が詩を書いたとしても十分ありえることです。問題は能力というものは脳みそのなかにあるものではなくて、脳みその外にかたちづくられるということです。算数とおなじしくみです。脳みそは至極簡単な計算しかできない、ややこしいものは外付けハードディスクでやります。あ、外付けなんて古いなぁ。
話しを戻します。ですから、詩を書くしくみは脳みそのなかにはないということです。数学ですら情緒で解けといった数学者がいます。ましてや詩歌です。考えてみてください。スパコンが短歌を書けるでしょうか。書けません。となると、わたしたち詩人の外付けハードディスクは宇宙大といわなければなりません。とても、脳みそには入らないのです。

では、同音同語の世界に通訳は必要ないかというとそうではありません。ひとが発声する「フー!」も、猫が発声する「フー!」もおなじ意味だとした場合も、やはりルールが必要です。「わたしは怒ってるぞ!」と、いうルールです。
それで、異語であれ、同語であれ一切のルールをとり払って詩を書いてみると、当然ですが、書けません。やはり詩歌もルールを外せないということです。では、しゃべることにもルールがあるとしたら、猫のルールを知らなければ、猫と話せないということになる。でも、あなたは猫と仲良しになれることもあるはずです。それは、猫の意識とあなたの意識が一致したときです。では、意識はしゃべらなくとも伝わるということになります。そして、意識は通訳を必要としないということになります。
どうやらこのあたりがいちばん匂いますね。詩のしくみというか、詩の本性が見えてくる思いがします。

さて、ほんの冗談のつもりだったのに、長くなりました。ぼちぼち終わりにしましょう。
わたしたちの目的は詩を書くことです。それで、できれば傑作と呼ばれる詩を書きたいと思うでしょう。八朔では満足できないからです。
その傑作を手に入れるために、こうしてジタバタしているのですが・・・。
いえ、実は、ジタバタするふりをしてみたのです。だから、ここまでのことはほとんど出鱈目だと思ってください。というか、文学的素養の豊かなあなたはもう気づいているはずです。
詩のしくみなんてどこにもないのです。
もし仮に、そのしくみを知ったとしても、あなたはますます、詩から遠くなるばかりです。だから、そんなことを真面目に考えることが、まちがっているといえるでしょう。

詩と死は同意語。

神と紙は同意語・・・、それでいいのです。












散文(批評随筆小説等) 詩のしくみについて Copyright たま 2014-07-10 15:05:29
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