「やがてぼくらは輪郭のない自由になる」に寄せて
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R.D.レインという精神医学者がいるのだけれど、
彼の用語の中に、「存在論的不安定」という言葉がある。
自己の存在、自身のアイデンティティが確固たる存在感を持ち得ない状態であり、
それを補強するために、「他者」という概念、存在を
アイデンティティ成立条件として持ち込むと、
初めから不安定な「自己」が、その持ち込んだ「他者」に侵食されていく、
「自己」が「他者」に引き裂かれていく、という理論だ。
輪郭のない自由。
この言葉は、その対極にある。
輪郭は存在しない。
すなわち、「自己」と「他者」が絶対的に孤立した状態として捉えられておらず、
その結果、侵食などといった概念から解放されているのだ。
区分がなければ侵食は起こらない。
あるいは、侵食こそが私たちを私たちたらしめる。
この詩は「ぼく」と「エム」の物語ではなく、
「ぼくとエム」の物語だ。
エムがぼくを形作る。そして、ぼくがエムを形作る。
ぼくはぼくであると同時に、(エムの一部ではなく)エムを形作る一部であり、
エムはエムであると同時に、(ぼくの一部ではなく)ぼくを形作る一部であり。
そのような世界。そのような自由。
そして最終連、この自由は、地球すべてに到達する。
すべてのあなたが私を作り、
すべての私があなたを存在させている。
そのような世界。そのような自由。
自己の存在を制限、孤立させるのは、自己でしかあり得ない。
自己の喪失は他者によって引き起こされるのではなく、
自己が他者をどのように捉えるかによって発生してしまう現象だ。
世界は自己と対峙していると同時に、自己もまた世界を形成する一部であり、
そのように、世界はいつも開かれている。