秋田散歩
小川 葉

 
 
今日は昼過ぎ、らーめん萬亀まで散歩に行ったら、いつもは行列なのに余裕で座れた。もしかしたら、昨日の夜、土崎のつけ麺店がテレビで紹介されていたので、そちらに流れたのかもしれない。
それはそれとして、いつもの萬亀。いつもにも増して、豚骨と魚介、野菜の風味のすべてが濃くて、ますます進化を止まない印象だ。
息子もまた、耳元で、
「超、覚醒した!」と、小声で嬉しそうに笑う。
あいかわらず、ここのラーメンは、頭ひとつ抜きん出ている。
萬亀までの散歩中、昨日私がiPhone 5sに機種変更したため、息子にお下がりにした4sを、昨日の今日、さっそく道に落として割っていた。その様子を見て、4s、ダメかもしれない、と思ったら、思ったよりも軽傷で、はじっこが軽く割れた程度。
思えばこの4sは、私も何度も落としながら使ってきたけど、割れたのがこれがはじめてなくらい、丈夫な機種だった。
しかし、割って、はじめてその人のものになる、とでも言うことなのだろう。割れてはじめて父の手を離れ、息子のものになったiPhone 4sは、何かに似ていると思った。
なんだっけなあ、どっかの商売みたいだなあと、ああ、あれかと、ふと嫌に目星がついたので、もうそれ以上考えないことにして、ケーズデンキでiPhone 4sのバンパー(保護ケース)を買い与え、また落としても傷つかないよう対策した。
それからドンキに寄って、いろんな人がいるものだと、なんとなく人混みの中をブラブラし、ドンキ脇の新しい道路を歩き、川反に出て、帰路につく。途中、川反のある店の中から、なまはげ太鼓の音が聞こえて、
「そろそろ、なまはげが来るな。やばいな」
と言うと、そんなこと言うなと怖がる息子は、かわいい子供である。
ニューシティ跡地には、まだまだ大きな雪山が残っている。冬期にあちこちから除雪のため運ばれてきた大量の雪が、この空き地に残っている。
かつて、ここにニューシティが生まれ、ニューシティが消え、残されたオールドシティから運ばれてきた雪が残っている、などと書けば、皮肉のようにも聞こえるが、
「ここは、竿燈まつりの時に、いっぱい屋台がある場所だよね」
と息子が言うので、この空き地もまだまだそのような場所として、機能しているのかと思えば、まどみちおの詩の一節を思い出したりもして、
「ああ ここで あることと ないことが まぶしいように ぴったりだ」
と、思うのである。
見ると、息子がまぶしい夕陽を背景に、写真を撮れと、笑いながらポーズをとっている。
この人は誰なのだろう。その影を写真に写しながら、ああ、私はこの人の父なのだ。思い出す。ただそう思って、写真に写す。
この人を、おれは養ってやってるんだとか、そんな無理な緊張に色目を使わずに、ただその人を、愛する人として写真に写す。ただ、そこにその人がいることを、証明するために。
私はすべてを思い出す。遺伝子から遺伝子に、伝えられてきた、この言葉にならない愛の言葉を。
そうしてすべてを思い出し、忘れていたことがあるとすれば。
それは春休みの宿題だと、息子が小さな舌を出して笑う。
これは、いつか見た景色だと、私の遺伝子も笑う。
 
 


散文(批評随筆小説等) 秋田散歩 Copyright 小川 葉 2014-03-24 22:49:36
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