詩の感想
番田 


詩を書くとはどういうことなのだろう。スポーツをすることに、詩を書くことは似ているように思える。そうではないという人も、きっと、まわりには多いのかも知れないが。なぜそう思うのだろう。詩の書き方というのは理屈では説明できないものの方が多い。バスケットボールの選手がゴールにくぐらせるためにジャンプ力を身につけていくことに似ている。同じようなことが、多くの詩人には、多分あるわけだ。詩人は彼らと違って何を鍛錬しているのだろう。スポーツマンが、ジャンプをするために鍛えるのは、筋肉だ。そう考えると詩を書くことに意味は無いのかも知れない。ただ、昨日書いたものよりも、今日書いたものの方が良いという風に思える時があるのは、不思議だ。詩を書くことによって多くの人は否定の能力を身につけていくのではないだろうか。多くの人は、ノートの前でいつもと同じ詩を書こうなどとは、思わないだろう。180度違う方向に向かって書くような人もいる。そう考えると自分に対する裏切りが文章の中に誠実さをもたらしていくのではないだろうか。またひとつのリズムのようなものが体の中に意識されているとき書かれる文章の感じ自体が変わってくる。そう考えると、言葉自体が演奏と非常によく似た側面を持っているという風に感じられる。


最近、私は、友人とショートメールのやりとりをする機会があった。そこで、いろいろと感じたものがある。メールを送る際に、画像のみだったり、画像と文章、あるいは文章のみや電話という風に伝え方は人ぞれぞれ違ってくるわけだが、文というのは、そこでは非常に柔らかな意味合いを伴ってくるのがわかった。画像のみのメールと言うのは、いつもコミュニケーション上では非常にキケンなもののように思われた。多くは風景であったり仲間といたりする写真なのであるが、その多くは受信者に対して饒舌かつ皮肉な印象を与えるように感じさせることが多い。それに比べ、文のみのメールというのは、さらりとしていて、とらえどころのない流動性を秘めているのである。電話はそれ以上に柔らかさをもっているのだが、立ち止まって人と話すこと自体、伝える手段としてはなかなか難しいわけである。


散文(批評随筆小説等) 詩の感想 Copyright 番田  2013-12-03 01:33:46
notebook Home 戻る  過去 未来