詩の構造について 詩と向き合う
葉leaf

ミツバチの午後 井坂洋子

恋人に会いにいくときは
緑樹の濃い反射がほしい
幾重にも層をつくる
日射しのプールの水面下
顔をあげると
ミツバチの唸りが耳もとをかすめる

肉体(からだ)は見境もなく
ほほえもうとするので
歩調をはやめ
輪郭のなかに肉体(からだ)を
おし込む
向かいの林は
だんだら模様の陽光のせいで汗ばみ
つりさがったハンモックから
蜜がたれている

どこかで輪郭がくずれたのだ
やわらかいところを出して
注入を受けている
双つの丘の
その中腹だろうか
ミツバチが無数の巣穴をあけているのは

(『マーマレード・デイズ』より)

 構造とは、(1)存在と(2)関係があるときに人間がそこに見出すものです。例えば建物を想像してみてください。ある建物が3階建てであり、それぞれの階が上下に積み重っているとします。そのとき、「それぞれの階」という存在が、「上下に積み重なる」という関係を結ぶことにより、「3階建て」という構造が出来上がります。
 「3階建て」という構造は誰が見てもそれと分かる客観的な構造です。基本的に、ある人にとっては3階建てだけれど別の人にとっては2階建てだ、ということはありません。ですが、構造といってもそのあり方の客観性には様々な程度があり、ある構造体についての構造認識が人によって異なることもあります。そして、そのような主観性の強い構造認識は、詩の構造の認識の場面において顕著に現れることがあります。
 引用した詩「ミツバチの午後」が、形式的には「3つの連から成る」という構造を持っていることについて、異論のある人はいないでしょう。「3つの連から成る」という構造はきわめて客観的な構造と言えます。
 次に、2連目、「肉体(からだ)は見境もなく/ほほえもうとするので」が「歩調をはやめ/輪郭のなかに肉体(からだ)を/おし込む」ことの理由になっている、という論理構造もまた、「ので」という接続助詞の意味さえ知っていれば誰しもが見抜ける構造であり、客観性が強いと言えます。
 ですが、ミツバチのモチーフと、恋人に会いにいく詩の主体とが、どのような構造をなしているかについて、読者の意見は一致するでしょうか。多くの読者は、ミツバチのモチーフと詩の主体とは並列関係にあり、せいぜい詩の主体がミツバチを認識しているという構造があるに過ぎない、と思うことでしょう。ですが、中には、恋人に会うがゆえに上気している詩の主体の心理が、ミツバチの陽気さ・動きの煩雑さに類似するという関係にある。あるいは、上気した心の速度が速いために、ミツバチの巣穴にまで詩の主体の想像が及ぶという関係がある。そのような構造を見出す読者もいるでしょう。
 ミツバチのモチーフと詩の主体との織り成す構造はそれほど客観的ではなく、読者の主観によっていくつかの異なる構造が見出される可能性があります。読者の批評眼が試されるのは、まさにそのような、いくつかの構造認識の可能性がある場面においてです。凡庸で表面的な構造認識をするのではなく、より深く、あるいはより複雑に、本質的な構造を見抜く。そのような構造認識ができることが、より良い批評をすることにつながると思います。
 次に一連目「幾重にも層をつくる/日射しのプールの水面下」。ここで「日差しのプール」とは比喩であり、日が射している空間を、あたかも水が充満しているプールであるかのように見立てています。この「水面下」という場所が、「緑樹の濃い反射がほしい」場所なのか、あるいは「ミツバチの唸りが耳もとをかすめる」場所なのか、判然としません。ここの構造も客観性が弱いものであり、読者の批評眼が試されます。ですが、このように構造認識がかなり難しい場面においては、むしろ構造の不安定さが際立ち、その不安定さが読者を幻惑するレトリックとして機能しています。構造の不安定さはレトリックとして、テクストをより詩的にします。
 詩の構造の認識は、「良い/悪い」「うまい/へた」「面白い/つまらない」といった評価に比べて、ずっと中立的な詩の認識の仕方です。ですが、詩の構造の認識は、価値において中立的であるからといって、必ずしも客観的であるとは限りません。上で見たとおり、詩の構造のとらえ方には客観的なものもあれば主観的なものもあります。そして、主観的な構造認識が展開されるフィールドにおいて、より良い批評が生まれたり、テクストの「詩らしさ」が高まったりします。詩を読むときは、ぜひその構造にも注意して読んでみて下さい。



散文(批評随筆小説等) 詩の構造について 詩と向き合う Copyright 葉leaf 2013-11-26 07:51:03
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