エアコン
ホロウ・シカエルボク



あれはそう、蒸し暑い初夏の深夜だった、ちょうど、今夜みたいな…俺は安ワインの小さなボトルをラッパ呑みしながら人気のない路地を歩いていた、ベロベロで…月は無く、といってひどく曇るでもない、なにもかもが中途半端な、ブラウスの裾から少し下着がはみ出している、中肉中背の冴えない女のような空だった、湿気がひどくて…俺は呑んだ分をそのまま汗に出してしまって、悪態をつきながら歩いていたんだ、酔っていて…その話はもうしたっけ?ともかく、呑む以外に気を紛らわせることもなく、汗だくになりながら家への道を歩いていたんだ、家に帰ったらまずシャワーを浴びよう、どうせすぐにまた汗をかくだろうけど知ったことか!エアコンは7年前に壊れたまま、直そうという気にもならない…電気屋に一度見に来てもらったが、そいつが言うには、もう換えの部品が存在しない型で、直せなくはないがべらぼうな金がかかる、最新型を買う倍ぐらいはかかる、とそんなこと言い、どうせなら最新型を買ってはいかがですなんて言うから、ウルセエヤと言って叩きだしてやった、あいつには判らないのだ、どうして俺がこの前時代的なエアコンを煙が上がるまで使い続けたのか、俺の前にこの部屋に住んでたやつのモクの煙で小便を漏らしたブリーフみたいな色になっちまったあのエアコンを、埃か風か判らないものを吐きだしはじめるまでなぜ使い続けたのか…あいつには想像もつかないのだ、俺は、最新型というやつが嫌いだ、最新型にはなにかしら余計なものがくっついているものだ、絶対に使う必要のない何かが…だから俺はあのエアコンを使い続けた、そしてそいつがくたばってしまった今、もう新しいエアコンを壁に取り付けるつもりなんかない、こんな話を聞くとたいていのやつは俺のことを変なやつだと思うだろう…そんなことにこだわってそんな汗をかいて何になるんだって…だけど俺は確信している、もしも俺がこの禁忌を破って最新型のエアコンを壁に取り付けたとしたら、俺の書く詩からはなにかが失われてしまうだろう…その確信が正しいことなのか、あるいは間違っているのかなんて、そんなことはどうでもいい、要は、そういう意識を持つことが大事なんだってことさ…そう、なんだったっけ…?そして俺は家への道をふらふらと歩いていた、壁に前時代のエアコンが壊れたまま張りついているポエティックな我が家へ、帰る途中だった…道端で女がぶっ倒れていた、初めは酔っ払いだと思った、吐いていたからだ、俺は軽い気持ちで近寄って介抱した、抱き起こすついでにおっぱいを撫でてやろうかなんて気持ちも少なからずあった、だけど近寄って抱き起こしてみると、そんな悠長なことを言っている場合ではないことが判った、女は孕んでいて…しかもすでに破水していた、おおイッ、しっかりしろヨッって俺は女の耳元で怒鳴った、女はぼんやりと目を開けて痛みに顔をしかめ、助けて、生まれそうなの、助けて、と衣擦れのような声で言った、助けてってもヨ…ここから子供を取り上げてくれそうな病院まではずいぶんな距離があるし、だからってこのままにしておくわけには…俺は意を決して彼女を抱きあげた、べらぼうに重たかったけど我慢した、もう安ワインの酔いなんかどっかに行っちまってた、悩んでいる暇はない、俺の家で生ませるしかない、どんなことをすればいいのか判らないが…俺はずいぶん前に、ニュースで見た自宅出産のシーンを思い出した、あれは、確か風呂場に水を張って…ええいッ、悩んでる暇なんかねえ!俺は女を抱えて揺らさないように急いだ、それがどんなに難しかったか、そしてどんなに体力を消耗したのか、どんなに唾を飛ばして語ったところで判りっこねえ…ともかく俺は滝のような汗をかきながら女を自宅に入れ、色気のない下着をはぎ取って風呂場に連れて行った、間に合わないかもしれない、と思いながら浴室に温い湯を張っていると、女がうーッという声を上げて、仰向けになって足を開いた…俺はそこから始まる誕生のすべてを見た、よく判らない怖れに捕われて動けなかった、これはなんという世界だ…女の股間というよりは何処か別の次元から転送されてきたみたいに、それは現れた、オ、オ、オ、オ、と女が声を漏らすたびにそれは揺らめきながらゆっくりと姿を現して…そして完全にこの世に、しかも縁もゆかりもないこの俺の家の浴室で生を始めた、それはぐったりとしていた、いかん、と俺は我に返り、昔見たテレビの見よう見まねで赤ん坊を逆さに持ち、背中を叩いた…すると、赤ん坊は少量の水を吐きだし、そしてけたたましく泣きだした、俺はホッとして服を着たまま浴槽の中へ座りこんだ、産湯にはちょうどいいぐらいの量が溜まっていた、なあ、産湯の入れ方なんか知らないぜと俺はぼやいたが、女は返事をしなかった、まさか死んじまったんじゃあるまいなと覗いてみたら目を閉じて荒い息を吐いていた、どれぐらいあそこでもがいていたんだろう、そう思うと急にこの名前も知らない女のことを愛おしく思った、ともかく俺は赤ん坊を洗って身体を吹き、俺のバスローブでぐるぐる巻きにしてベッドに寝かせた、それから浴室に行き女の頬をぺちぺちと叩いて、おい、起きてベッドに行けヨッて言った、ややこしい話はあとでするからって…女は目を開けて生まれたの?って聞いた、ああ、生まれたと俺は医者のように言った、まさか自分がこんなセリフを吐くなんて思いもしなかった…しんどいだろうが早くベッドに行って横に寝てやりなよ、と俺は促した、女は立ち上がって着替えあるかしら、とすまなそうに言った、俺は慌ててクローゼットを漁った、だいぶん前のガール・フレンドが置きっぱなしにしていた部屋着を見つけた、俺はそれを着せてやった…とりあえず休みなよって言って俺はソファーで寝た、こんなところで寝かせといて大丈夫なんだろうか、無菌カプセルみたいなのに入れとかなくていいんだろうか、とちょっと思ったけれど、そういや俺も家で生まれたんだっけなんて話を思い出してそこそこ安心して眠った、疲れていたのか、昼ごろまでぐっすり眠った、女の方は何度か乳をやったりしてたらしいが…


朝になって、女は病院に電話をして、それからタクシーを呼んだ、ほんとうにありがとう、と何度も言いながら…いいってことヨ、と俺はイイヤツみたいに言って、ニカッと笑った、そして、なあ、その子、時々見せに来てくれないかい、と言った、女は微笑んで、いいわよ、と答えた、そしてタクシーに乗り込み、手を振りながら遠ざかって…女を見送ってしまうと、俺の身体は異様なまでの疲れに襲われた、そう言えばシャワーも浴びてなかったんだ、俺は浴室に飛び込み、昨夜の片付けをしながらシャワーを浴びた、へとへとになってベッドに横になると、昨日の騒動の匂いが染みついてた、女の乳房から毀れたミルクが、形容しがたい匂いを放っていた、でもそんなことも気にならないくらい俺は眠りたかった、目を閉じると昨夜のとんでもない光景がまぶたの裏に浮かんだ、俺たちも動物なんだ、と俺は思った




今日も暑くなりそうだ、と寝返りを打ちながら思った、エアコンを買い換えるのもそんなに悪いことじゃないのかもしれない、そんなことを考えながら俺は深い眠りに落ちていった……。




自由詩 エアコン Copyright ホロウ・シカエルボク 2013-05-19 02:04:08
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