練乳
夏美かをる

「お母さん、コンデンスト・ミルクっておいしいね!
 明日もまたこれ作ってね!」

娘達が練乳をお湯で溶いた飲み物を啜りながら言う

「いいよ。
 お母さんも子供の頃 これが大好きだったんだよ」




東京の下町に住んでいた頃
練乳の赤い缶は父がパチンコに行った日にしか
お目にかかれない特別なものだった

家計は決して楽ではなかったので
父が出掛けたのはせいぜい二か月に一度
沢山勝った時には、景品がいっぱい詰まった
紙袋の上から顔を覗かせていた練乳の缶 三つ、
ちょっとしか勝てなかった時にも
袋の中にちゃんと入っていた練乳の缶三つ、他の景品はなし!

帰宅した父が茶色い袋から誇らしげに練乳を取り出すと
?待ってました?とばかりに
ちゃぶ台を家族五人が囲んだ
母が缶切りで蓋をあけて
中身をカップに分け入れ、
熱いお湯を注いで ぐるぐるかき混ぜる

そして皆でズーズー音を立てながら啜る
この世にこんなに美味しい飲み物があるんだ、といつも感動した

ついている練乳がもったいないと
缶の蓋を舐めた母が、唇を切ってしまったこともあった
「何欲出してるんだ、お前は!」と父がわざと怒った声を出した
「馬鹿だねぇ、私ってば」
慌ててティッシュを取りに行きながら母が笑った
「全くお前は馬鹿だ!」
そう言いながら、今度は本当に愉快そうに父が笑った
つられて姉と弟も微笑んだ
缶の中の神聖な乳白色上に突如引かれた
真っ赤なラインの鮮明さに目を奪われ、
私はしばし強張ったままだったけれど…




「ねえ、知ってる?
コンデンスト・ミルクは日本語で?練乳?って言うんだよ」
「ふぅーん…日本にもあったんだね」
「そう、お母さんの子供の頃からあったんだよ…」




あの頃よくしたように
もったいぶってスプーンですくって一口ずつ啜ると
懐かしくて 優しくて ほんのり切ない甘さが 
ゆっくり ゆっくり
私を満たしていく




家族みんなで練乳を分け合う
ちゃぶ台の形をした幸せには
もう二度と寄り添えないけれど
こうして今 
「コンデンスト・ミルクっておいしいね」 と
私の前で笑顔を見せている娘達の頬には
薄紅色の幸せが確かに息づいている

その色の輝きを護るため
夫はひたすら働き 
私は練乳の缶を幾度も開け続ける
かつて 父と母が
小さな疑問すら感じることなく
ただ必死にそうしてくれていたように―



自由詩 練乳 Copyright 夏美かをる 2012-10-24 06:14:41
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