安酒
深水遊脚

 安物の意味合いは、もうすっかり変わってしまっている。それは必ずしも粗悪品を意味しない。いろいろ限界があるなかでも本気でいいものを作ろうとしなければ誰も振り向いてくれない。ましてやお金を払おうとなんてそう簡単にしてくれない。生産者として何かを差し出す厳しさを知っているから、消費者としても何かを買うときは本気の度合いを吟味する。持っているお金が限られるのに好き好んでいい加減と分かっているものに浪費したりしない。手に届くもののなかから、本気で好きになれるものを真剣に選ぶ。誰かが手にする、傍目から見た安物は、そんな抜き差しならない真剣な選択の結果手にしたものかもしれない。
 話題にするにはもう時が経ってしまったけれども、村上春樹さんが朝日新聞に寄せた「魂の行き来する道筋」という文章は、尖閣諸島を巡る中国の政策と反日感情の高まりに対抗するかたちで国民感情を扇動しようとしたりされたりすることを、安酒の酔いに喩えている。文章全体の主旨には全く異存はない。だから安酒の比喩に対する違和感を書き記すべきかどうか迷った。でも、村上春樹さんが安酒を昔あった粗悪品のイメージで語っているのではないかとの疑いを私は抱いている。
 安酒を手にしてとにかく酔って嫌なことを忘れたい、酒の力を借りて心の底を晒せる人と徹底的に語り合いたい、という人たちはいまもいるだろう。そんな本気のやり取りに、気取りは邪魔になる。それもきっと昔と変わらない。でもいまは昔に比べて用心深い人が増えている。酒の無理強いに対しては世間の目が厳しい。マイペースで好きなお酒を飲むほうが普通だろう。個々の人たちが自分の世界を保ちつつ、その世界にお互いに踏み入れすぎないようにしている。巷の飲み屋をつぶさに見ているわけではないから想像でしかないけれど、同じ安酒を飲むのでもいまはこんなふうになっているのではないだろうか。下記引用部分は、古きよき(悪しき?)学生のノリのにおいを感じさせる、牧歌的なものに私には思える。

(引用ここから)
「安酒はほんの数杯で人を酔っ払わせ、頭に血を上らせる。人びとの声は大きくなり、その行動は粗暴になる。論理は単純化され、自己反復的になる。しかし賑やかに騒いだあと、夜が明けてみれば、あとに残るのはいやな頭痛だけだ。」
(引用ここまで 朝日新聞 9月28日 村上春樹「魂の行き来する道筋」)

 村上春樹さんが単に時代に追い越されているというだけなら、それに対して私があえていうことはない。ただ、安酒の比喩が、限られた所得の中で手に届くもののなかから、自分が本気で愛せるお酒だけを真剣に選んで飲んでいる人たちを逆撫でしてしまっては、そのことが、村上さんが書くところの「魂の行き来する道筋」を塞いでしまうことにはならないだろうか。安物といわれるものにも、そこに行き着く魂の軌跡はある。安物を生産する人たちはそのことをよく分かっている。そして、安物を生産する人たちのなかには、多くの中国人がいて、多くの日本人もいる。安物を見下すことは、その人たちの生産活動、消費活動を見下すことにつながる。私は、安酒の比喩という、それ自体が安酒ではないかという疑いのあるこの文章から、少し距離をとりたい。村上春樹という酒蔵は愛しているとしても。


散文(批評随筆小説等) 安酒 Copyright 深水遊脚 2012-10-11 11:21:30
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