風呂場の鏡
桐ヶ谷忍

髪の毛を洗おうとして、座った風呂場のイスの
正面の鏡が曇っていた。
洗髪するのに鏡が曇っていようと構いやしないが
いつもの習慣で鏡に向かってシャワーをかけた。

一瞬歪んだ私の顔が映り、それが水滴でするすると
歪んだまま下へと落ちていった。
その水滴一粒一粒にもまた、私の歪んだ顔が映っており
それがシャンプー台で粉々に砕かれるのだ。

曇の取れた鏡には、無表情にこちらを見返す女がひとり。

私はしばらくその女と見詰めあった。

私にも、その女にも、互いに言うべき言葉も伝えたい想いも
何も出てこなかった。

無言でシャンプーのポンプを二回押して髪の毛を丁寧に洗う。
いい加減、ポンプ1回の分量で済ませられる程度に髪の毛を
切りたいと思いながら、また丁寧に泡だらけの頭をそそぐ。
それからリンスのポンプを5回押して、またシャワー。

そうして、顔を洗おうとして、また正面の鏡に目をやる。
曇っている。

私はまたシャワーを鏡に向けて流した。
無表情の顔が女がまた、気怠げにこちらを見返している。

無表情でいる事。
それは長年の習性が、とうとう習性ではなく本物になって
しまったという事だった。



近頃はいじめ自殺問題が今更のように騒がれている。
かくいう私もまた、合計15年間いじめを受け、死はいつも
甘美な救いのように憧れ続けていたものであった。
だが、私の家は熱心な仏教信者であり、子供向け童話より先に、
子供向け仏教絵本を読まされた。
それは、自殺した人間は億劫(おくごう=永遠に等しい時間)の
無間地獄に堕とされる、と子供の目には恐ろしい絵柄と文章で
脅していた。

まだランドセルの方が身体より大きかった頃から、家の近くの
団地の最上階に毎日登っては、頑張ればなんとか乗り越えられる
鉄柵を両手で掴み、生きる地獄と、死後の地獄とを比較し、
結局泣きながら生きる地獄を選ばざるを得なかった。
そんな非現実的な、人間の考え出した「地獄」を、愚かしい事に
つい数年前まで私は信じて疑わずに生きてきた。

また、両親は互いに罵り合うので夢中で、子供が自殺を
夢見ているほど苦境に立っている事を、私が躁うつ病になった
数年前に口走った時に初めて知ったというほど、無関心に
育てられ、学校の先生も、職場の上司も、見て見ぬふりを
し続けた。
私はひたすら無表情で、いじめにも、なんの痛苦も受けていない
とでもいうように無表情でいる事に精一杯だった。
それが、いじめられる側の、唯一の反撃だった。

死は、至高の憧憬だった。

生まれた時から叩き込まれた仏教の教えに疑問を持ち、
そして地獄などないと考えられるようになるまでの何十年間の果て、
ようやく世間一般的な日本人の仏教に対する考え方、に手が
届いたかどうかという、いわゆる棄教が出来てから一年か、二年か、
私は去年の夏、自殺しようとした。
理由は様々ある。
例えば、その頃、神経症の病気がいくつか重なって辛かったり、
朝から夜遅くまでずっと独りで過ごすさびしさであったり、
生まれてからずっと何十年も、精神的支柱であり続けた本尊を
喪失してしまった衝撃であったり。
そしてそんなつらい情況であるにも関わらず、父の心無い一言が
とどめとなり、私はいともたやすく、死のうと考え、実行に
移した。

全て、無表情の内に決めた事だった。

結果はご覧のとおり未遂となってしまったわけだが、それで
良かったと思える程度には、今の私は幸せになった。
中古ではあるがマンションを買い、実家に預けていた愛猫とも
暮らせるようになり、夫の会社側に私が自殺未遂をした事が
伝わっている為、去年までよりは夫も、それほど遅くならず
帰宅してくれる。

だが反面、それでもやはり死は私にとっていまだに夢であり
それは多分、死にたいと思う年月が自分の年の半分近くを
過ごしてきた人間の習性のようなものなのだ。
死にたいという理由がなくても、死に憧れる。

同じように、喜怒哀楽を表に出しても良いという境遇になった
今ですら、私の顔は無表情なのだ。
無論、人と会えば、これもまたいじめを受けていた者の習性で
相手の表情によって私も同様の表情を作る。
敵と認定されない為、相手に共感しているような演出をして
いるのだ。
両親にさえ、そういう態度で接する。
唯一、素顔を見せるのは夫にだけで、その夫も、相対している
時間は少ない。

無表情と言っても、去年まではそれでも穏やかな無表情だった。
その証拠に、よく人から道を聞かれたりした。
良く言えば話しかけやすい、悪く言えばつけ込みやすい顔を
していたのだろう。
だが、自殺をし損ねた現在の私の顔は、掴みどころがないような
固い無表情になってしまった。
道も聞かれなくなった。

今年の4月から、愛猫を引き取れて、一緒に暮らしているのだけど
そういう意味では、夫がいない時間でも無表情ではなくなった。
私は本当にこの猫(リオと名づけたアメショの雄)を愛していて、
リオは寝て起きるとまず私の肘から下の腕をペロペロ舐め回す
習慣があったり、遊んで欲しい時には、私の腕に前足をちょこんと
乗っけてこちらをじっと見たりと、書けば枚挙にいとまがないくらい
可愛らしい仕草をする。
それで自然に私の顔もほころんだり、あるいは悪戯すれば怒ったり
頻繁に自然に表情が変わる。

けれど、リオが寝ている時や、お風呂など、ひとりになった時、
私の顔はやはり固い無表情なのだ。

鏡に映るこの女は、一体何を考えているのかさっぱり読めない
表情をしている。
私はその女の顔めがけてシャワーを浴びせ、なんとなく気鬱な気分で
お風呂から出た。


散文(批評随筆小説等) 風呂場の鏡 Copyright 桐ヶ谷忍 2012-08-11 12:54:31
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