最終考察あさき 前夜祭 -幸せを謳う詩-
只野亜峰

 こんばんわ。いつも貴方の隣の書物に這い寄るラブリーチャーミングな墓荒らし、私只野亜峰でございます。当初「歌謡曲批評」などと題打って始まりましたこのコーナー。私如きが批評等とはおこがましいという自戒と、また歌謡曲を娯楽として楽しみたいというスタンスから「歌謡曲日和」という日和ったタイトルに差し替えました昨今ではありますが、なにぶん今回の相手は相手が相手なだけに日和ってばかりはいられないのが、私とても嬉しい限りでございます。言いますのも、我々のような墓荒らしにとって「あさき」という存在は云わばラスボスの如き存在でありまして、その難解さたるや言語で表現できる範囲を軽く超えていたりするわけです。
 比喩や暗喩を多分に使う歌謡曲シンガーソングライターの存在等というのは昨今においてたいして珍しくありません。歌謡曲はもはや一本のロードムービーの如き世界観を童話の如き簡略化を経て一般大衆庶民に愛されるように大量の添加物を込められた食世界でいうJAPANカレーライスと化していっていると言っても決して過言では無いでしょう。しかしながら、この「あさき」というアーティストだけは別格なる存在であります。男塾で喩えるのなら大豪院邪鬼、ミスチルの桜井がスライムベスだとすれば大魔王ゾーマに匹敵するほどの存在感と厨二力と病的メンヘラセンスを兼ね備えた20世紀最後の砦でありましょう。あくまで我々の業界での話ですが。


 とはいえ、「この子の七つのお祝いに」はあさきシリーズの中でも最上級のダンジョンであると言って良いでしょう。いくらラブリーチャーミングな墓荒らしの私としましても相手が古墳だのピラミッドだのとなると普段の385倍は気合を入れていかないといけません。なにせこのあさきという化物は歌詞の大半が暗喩で描かれている上に、その比喩で一枚の絵を描いてしまうというブルシットなナマモノです。先ずはウォーミングアップからいきましょう。

――折り鶴は木の葉 風に揺れ 傾く
――訪いた 影を延ばしながら

 ここで語られる「折り鶴」というのは「願い」の象徴と読み解くべきで、それが風に揺れ傾いているというのは、願いが風に揺れている儚い存在であるという事で、「ああ、私の願いがなんだか風に弄ばれてる木の葉みたいでやばいわ」と読み解く事ができるわけです。影が伸びていくというのは夕暮れの現象ですね。一日は朝がきて夜がきて終わるわけですが、人の一生も晩節を晩秋と表現したりする人がいるように日本人というのは気象現象を人間の一生に喩えるのが好きらしいです。つまるところは夕暮れとは終わりの暗示ですね。願いも虚しく弄ばれてる最中に何かが終わろうとしているというたまったもんじゃないフレーズです。1フレーズでこんだけ語れるんだから一つ一つを全力で追いかけてたら僕の晩秋が見えそうです。終始こんな感じでアレですのでもう細かいところは考えずに感じてください。なんとなくでもわかってくると曲の違った表情が見えてきて楽しいよ。

 ところでここに「幸せを謳う詩」の歌詞をもってきたのは理由があります。コアなあさきすとの方々では常識と化していると思われますが、「この子の七つのお祝いに」と「幸せを謳う詩」は対の曲として広く知られていたり知られていなかったりするわけです。「鯉幟」「母子二人」「キネマ」なんていう共通項からも読み取れる事ができますね。さてさて、この曲の考察を始めて実を言うと三年ばかり経つわけですが(常に考えていたわけではないですが)、ずっと謎めいていた存在がこの「幸せを謳う詩」で描かれている「白髪の少女」であったわけです。ラストの1フレーズでのみ語られるこの少女ですが、存在自体が謎。目的も謎。何の意味が込められているのかさっぱりわからない。しかしながらこの白髪少女は「この子の七つのお祝いに」で暴れまわる白髪少女には違いないでしょうからおざなりにはできない。白髪というと先ず老婆が浮かびました。少女のような心を持った白髪の老婆、略して白髪の少女。なんだか納得できそうですが腑に落ちない。しかしながらこの最後の1ピースの正体がわからない事には考察の組みようが無い。墓荒らしの僕としては墓に誰が眠っているのかをわかりかねるというにっちもさっちもいかない状況だったわけです。

 しかしながら落ち着いて考えてみればなんとない答えが出たわけです。一般的に考えて日本人というのは黒髪一辺倒の民族なので白髪というのは本来老化以外にありえないわけですが、例外があります。結論からいってしまえばアルビノですね。考えてみれば「この子の七つのお祝いに」というタイトルには「子供は七歳までは神様の子供である」という信仰からきているわけです。これは七歳というのが昔は平均余命的に一つの境であった事からこうなっていると考えられていますが、七五三なんていう行事もこの名残だったりするわけです。まぁ、アルビノである必要は無いんですが、白という色はしばしば信仰の対象として捉えられます。日本神道なんかでも白蛇は重要な存在として扱われたりしますね。つまるところ白という色は云わば神の象徴であるわけです。白髪の髪と神をかけているあたりのオヤジギャグが憎たらしいですね。つまるところ、この歌で描かれる「この子と二人生きていこう」と心に決めた母親の側に座り込んでほくそ笑む白髪少女というのは、母から子を奪い去る存在。この母子の関係の終わりの暗示であるわけですね。なんで気がつかなかったのか不思議なくらいですな。同じく狐も妖怪として扱われるケースが多いですが、神として畏敬の対象となる事も同様に多いです。つまり、この二つの作品で語られる「白髪の少女」と「狐」は主人公である母から子供を奪い去る忌むべき存在として描かれているわけですね。

 さて、いつもの歌謡曲日和であればここで適当に切り上げるわけですが今回ばかりはそうは言ってられません。最終考察と題打った以上、そして三年に渡る長き因縁に終止符を打つためにもここで全ての決着をつけねば問屋が下ろしません。ネックであった白髪少女の正体が明らかになった以上はここで決着をつける事とします。それではいよいよ本題の考察部分にかかっていくとしましょう。

■幸せを謳う詩考察開始■

 「幸せを謳う詩」が「この子の七つのお祝い」の下地になっているという話は前述の通りですが、主人公である母の見出した「幸せ」とは一体何であったのかというのがこの曲のミソであるわけです。では、この曲に出てくる人物をさっとおさらいしておきましょう。先ずは、主人公である母とその子供(おそらく文脈からして息子)、母の物語で語られる父親、キネマを上映する爺と、キネマを見る少女、そして前述の白髪の少女ですね。我々の業界では「キネマを見る少女」と「白髪の少女」を同一の存在として見る傾向が少なからずありますが、わざわざ「白髪の」と脚注を入れているあたりで別人と考えるのが妥当かもしれません。そもそも映写機の動きからさっするに「少女」は観る側であり、いわば劇中劇である母子の物語に出てくる「白髪の少女」は劇中劇の登場人物という風に解釈するのが自然であるでしょう。

(1)父親は本当に死別であるのか

 この歌は素直に読めば、夫に先立たれた未亡人である母が、残された我が子と供に強く生きていこうという決意を固める物語として捉える事ができます。普通に考えていい話です。しかしながら終始禍々しい曲調で語られるこの物語が果たしてそんな爽やかな物語を語るものだろうかと考えると疑問が残り、語り部である爺の嘲るような言葉の節々にもそれを読み取る事ができます。どうやらこの母の見出した「幸せ」というのは一筋縄ではいかない事が窺い知れて来ました。

――幸せは 続かない 阿呆であることが 幸せなときもある

 まぁ、こんな風に作者からすら罵られている可哀想な感じの未亡人ですが、阿呆とか言われると何か親近感が沸いてくるから不思議ですね。未亡人とか大好きですからー! まぁ、そんな事はわりとどうでも良いんですが、やはり母様は良い感じに狂ってしまっているという事が読み取れてきます。こうなってきますと彼女の主観というものは考察上あまりアテにする事ができません。京極夏彦よろしく"違って"しまった彼女の幸せというのは矢張り幸せではあり得ないのです。
 仮説を立ててみましょう。彼女には現実に物凄く心理的ストレスがかかり"違って"しまった。"違って"しまったからこそ彼女は幸せを見出せたのだと仮定しましょう。曲の冒頭部分から察するに彼女のストレスの原因は夫との死別である事が読み取れます。しかしながらよくよく読み解いてみれば夫の死を臭わせるフレーズは冒頭の一節だけで、映写機が回るのはその後の彼女の回想であるわけです。時系列的に見て冒頭部分は映写機の写す回想の後の出来事でしょうから、云わばこの曲の語る物語のラストシーンであるわけですね。最初からクライマックスとか少年誌じゃないんだから。つまるところ冒頭のシーンでの彼女はもうすでに"違って"しまっていると考えるのが自然なわけです。こうなってくると夫の死別という事柄にすら疑念が生じてきます。
 よく男を作って逃げ出した母親や、女を作って逃げ出した父親の事を子供に語るときに「母さん(父さん)は死んだんだよ」なんて言い聞かせる場面が我々の生きる世知辛い現実世界でもままありますが、これと同じ原理が働いたのではないかと予想されるのです。つまり"違って"しまった彼女が心の平穏を得るために用いた手段は、自らの記憶の塗り替えであったのではないかと推察されるのです。なんらかの理由で夫(或いは恋仲)という伴侶を失ってしまった彼女は、あまつでさえ宿された命をこれから一人で背負っていかなければならないという二重苦の甚大なストレスに脅かされます。そこで彼女が行ったストレス軽減策こそが記憶の塗り替えであったわけです。モチベーションというものは人間が生きる上での重大なエネルギー源となります。男に捨てられ一人我が子を背負っていかなければならない生活と、先立たれた男の忘れ形見を後生大事に背負っていこうというのでは心理的負荷も桁違いであるでしょう。この記憶の塗り替えは母として生きていかねばならない彼女にとっての重大な生存戦略であったと言えます。

――ふぃるむ は逆さに回り
――二つの笑みを白黒にして 燃やす
――飛び散る灰は 粘土の様に固まり
――後ろに延びた影に散り敷く
――「幸せになるために」

 映写機の前半部分で語られた幸せな男女の風景の描写はここで転機を迎えます。フィルムを彼女の記憶を考えると、フィルムが燃えるという現象は辛い現実の記憶の消失を示していると考えられます。そして「後ろに延びた影」を彼女の過去と捕らえるとすっきりします。彼女の辛い記憶というフィルムは一度燃え、彼女の望む過去として形を変え受け入れられたわけです。幸せだった頃の記憶はしっかりそのまま残しているあたりが逞しいですね。恋する女は綺麗さー♪なんて誰かが歌ってましたが綺麗なのは外観だけで中身はドロドロです。

(2)白髪少女特化考察

http://www.konami.jp/bemani/popn/music17/mc/song16/konoko.html

お疲れさまです。

あさきです。

遠い昔に作った、幸せを謳う詩の続きです。


優しくて綺麗なお母さん、
愛らしいぼうやちゃん、
頑固で強面だけれど、とっても優しいおじいさん、
いつもいつも甘えてごめんね、大好きなおばあさん、
遠くで、いつも皆のことを優しく包んでくれているお父さん、

しっぽふりふり、笑顔を運ぶよ子狐さん。

そんな、優しいホームドラマをイメージして作らせていただきました。


終点、世界中の狐さんたちが一堂に集まり、
拍手喝采で家族を迎えるシーンは必見です!


何卒よろしくお願いします!!


 ――頭おかしいだろこいつ。なんていうふうに、うっかり本音が零れちゃうほどほがらかな「この子の七つのお祝いに」の公式コメントなわけですが、なんとこれが隠れた最後の1ピースだとは僕も思いもよらなかったわけで、色々驚きを隠せないわけですがそれを裏付ける根拠も出てきたりで、新発見に慄く考古学者の如く墓荒らしの私と致しましては大変に狼狽しておりますが、こういった発見もまた墓荒らし冥利に尽きるものと考えればエクスタシーの極みというものでございます。この二作品の大まかな概要がようやくおぼろげながら見えて参りました。
 かいつまんで言ってしまえば、重要なのはこのホームドラマの真なる主人公が果たして誰なのかというところです。頑固なおじいちゃんと優しいおばあちゃんは言ってみれば脇役ですので除外するとして、愛らしいぼうやちゃんは主題ではあるけれども主人公とは言い難い、では優しくて綺麗なお母さんが主人公なのかと言えば実は違ったりします。もう一人いるのです。落ち着いてコメントを読み返してみましょう。一見登場人物の事をざっくばらんに紹介している第三者視点のようでありますが、「いつもいつも甘えてごめんね、大好きなおばあさん、」。どう考えても孫の台詞ですね。本当にありがとうございました。つまり、娘がいたわけです。娘さんの家族紹介だったのです。爺とシネマに興じていた少女も最後にほくそ笑んでいた少女も実はこの娘さんだったのですね。恐ろしい子。

 さて、この曲の考察冒頭で「少女」と「白髪少女」は別人だなんて声高らかに宣言してしまった舌の根も乾かぬうちに不細工な話ではありますが、この二つの少女は恐らく同一人物と捕らえるのが妥当です。しかしながら一度引き離した意味はあったのかもしれません。優しい家族に囲まれた少女と不気味に微笑む白髪の少女。前者が本来の少女の姿であり、後者は気が触れてしまった母の見る幻影であると考えればすっぽり収まります。

 うそっこ劇場版:幸せを謳う詩

 優しくて綺麗なお母さん、いつも皆のことを優しく包んでくれているお父さん、優しいおじいさん、大好きなおばあさん。
 とっても素敵な家族に囲まれた少女は毎日がハッピーライフ。もうすぐ弟も産まれるんだって。よかったね。
 だけどあれあれ、お父さんがいなくなっちゃったよ。お母さんの様子もなんだか変だなぁ。二人ともどうしちゃったんだろう。

 「おまえのお母さんはね。とっても辛いことがあって色んな事を忘れてしまったんだよ」

 「色んな事を忘れちゃったの?私の事も忘れちゃったの?」

 「今はお母さんも辛い時だから、おまえも辛い思いをたくさんすると思うけど、お母さんもきっと立ち直るから頑張るんだよ」

 「うん!お母さんだって大変だもんね。私ももうすぐお姉ちゃんになるんだしへっちゃらだよ」

 「うんうん。良い子だな。お爺さんもお婆さんもいるし、お父さんもきっと見守ってくれているから一緒に頑張ろうな」

 お母さんに忘れられてしまったのはやっぱり悲しいけど、きっといつか優しいお母さんに戻ってくれると信じて少女は今日も頑張ります。
 産まれてくる弟といっぱい遊んであげてね。そうしたらきっとお母さんも元気になるよ。もちろん何の根拠もないけどね。


(3)父親不在の謎

 父親不在の謎は意外にも「幸せを謳う詩」のショートver.で明らかになってきます。「この子の七つのお祝いに」もそうなんですが、アーケードで使われたショートver.とロングver.とでは歌詞が結構違っていたりします。ここまで読んで頂いた奇特な皆様には是非一度見比べて頂きたいと思うのですが、この違いがまるで異なる曲の表情を見せるものですからこの作品というのは非常に面白いものです。
 キーワードは「途切れぬ糸」と「途切れた色 」、そして「貴方」と「あの人」。よく運命で結ばれた男女を赤い糸で結ばれているなんて言いますが、これはわりと古くから言われていることで日本では小指につけられた赤い糸のイメージでよく知られています。消えることの無い縁と消えてしまった赤い色。「貴方」と「あの人」の使い分けにも注視すべきで、作中に亡き夫と思わしき人物が「あの人」と語られたのは一度きりで、後は終始「貴方」と呼びかけられています。これが意味することは何かと言えば「貴方」と「あの人」は別人であると考えるのが妥当であるとう事です。「あの人」って言い方はなんだか色んな意味を含んでいそうです。とりあえず子供には使いません。親に対しても滅多に使う事は無いでしょう。夫で無いとすれば、後は夫の不倫相手の事を指して「あの人なのね!あの人のところに行っていたのね!」なんていう台詞がよく使われたり使われなかったりしますね。不倫相手の好きだったぼんぼりを使うなんていうのはアレですね。まだ一緒にいた頃に「私は全部知っているのよ」という無言の訴えで使っていたのかもしれませんし、「貴方」の好みの「あの人」に少しでも近づこうといういじましい努力だったのかもしれませんし、いずれにせよちょっと怖いですね。まぁ、二股なんてするもんじゃないですね!

(4)弔いの灯

 二通りの考えができます。先ずは夫の不在から考えて夫の弔い、そして夫ではない誰かの弔いを夫のものと思い込んでいるケース。後者の場合ですと実際には生きて他の女性の下へと向かった夫の不在を夫の死として受け入れた記憶の喪失があったと考えられますね。では、実際に弔われているのは誰なのか。これにも二通りの考えができます。一つは円も縁も無い他人の弔いを夫のものと勘違いしたケース。そしてもう一つが前述の娘の場合ですね。僕はこれが本命なんじゃないかと踏んでいるのですが、娘の存在自体がわりと思いつき一発芸みたいなところがありますので根拠となる描写を挙げていきたいと思います。

――流れていく弔い灯は風を凪き
――空へ消えた

――流れていく弔いの灯は風を凪ぎ空へ
――水上から流す 幸せを 小さな貴方と


 前者がショートver.、後者がロングver.での冒頭部分の歌詞になりますが実はこの二つの曲は全体を通して大きく解釈が異なってきたりします。先ずショートver.ではキネマの存在が語られていなかったりします。夫に捨てられたという自覚が強く描かれているのもショートver.で、実際ショートver.をよく聴いてみるまでは「あの人」と「貴方」の違和感にも気がつかなかったりしました。「あの人」の描写はロングver.にも残っていますが、「途切れた色」等の夫との別れを暗示させる言葉が削られたりで、ロングver.ではその表現がややマイルドになっていると言っていいでしょう。前者の一節では一人で見送っているという印象が強く、後者の一節では亡き夫との忘れ形見としての息子の存在が強くアピールされています。

 問題は弔われているのは実際は誰で、主人公である彼女がそれを誰であると思っているかということです。前述の事を踏まえるとショートver.の歌詞ではまだ彼女は正気を保てていたのではないかと考えられます。云わばこの曲の表の部分であると言って良いでしょう。キネマが現れ記憶を焼ききる描写のあるロングver.は云わばこの曲の裏であると考えられるわけです。同じ曲のver.違いで表裏一体を描くとか頭おかしいんじゃないのこの人。後者のフレーズではなんだか忘れ形見を身ごもった女性が亡き夫を見送っているというニュアンスが強く表現されています。恐らくは彼女も本当にそういうつもりなのでしょう。しかしながらコインの表部分では、つまり実際には彼女は夫に捨てられた自覚をまだ残しています。つまり弔われているのは夫ではありえないわけです。――では、一体弔われているのは誰なのか? という話になります。

――そう、幸せの終わりに小さな花が咲いていたとして
――私にとってそれがこの子でした

 ショートver.ではこのフレーズが締めくくりに使われ強くクローズアップされています。語られる夫の裏切りと、幸せな記憶の残骸としての「この子」が強くクローズアップされている締めくくり、冒頭の弔い火、ショートver.というのはつまり亡き娘の喪失を嘆いた詩であると仮定すれば不都合無く全てが収まるわけです。ロングver.にてこのフレーズが「」で括られている事も注視するべきで、ロングとショートではそれぞれこのフレーズを扱う解釈自体が異なることを予感させています。ともすれば彼女の記憶の中の幸せの残光としての娘の姿は焼ききれたキネマのフィルムと共に消え果てしまったのかもしれませんね。忘却によって時に人は悲しみを乗り越えるものですが、娘の死すら記憶の彼方へと追いやってしまうのは一抹の寂しさを禁じ得ません。幸せの価値観は人それぞれという事でしょうかね。

(5)途切れぬ糸が語るもの

――静かに舞う 緋色の糸

 さて、ロングver.に特化した考察となります。「静かに」という言葉が語られるフレーズは作中に三回ありまして、その都度で場面が入れ替わっています。引用した部分は爺と少女がキネマに興じる禍々しい姿を描いた直後に描かれる幸せな男女の姿なわけですが、素直に読めばこれは主人公である母と夫とが二人で過ごした幸せな記憶という事になるのですが、問題はその後に描かれるフレーズです。

――ふぃるむ は逆さに回り
――二つの笑みを白黒にして 燃やす

 ここで描かれる二つの笑みというのは先に描かれていた男女の笑みには他ならないでしょう。しかしながら、この男女が主人公と夫であったというのなら、幸せな記憶をわざわざ自らで焼ききるだろうかという疑念が生じます。彼女が消し去りたい記憶が夫の裏切りであったなら尚更の事で、わざわざ幸せの記憶を消し去る意味は無いわけです。つまり、ここで描かれる男女というのは主人公である彼女ではありえないわけです。

――「いつまでも続くといいな」
――彼女は言う

 わざわざ「彼女」という言葉を持ち出してきた事にも注視するべきで、ほぼ一貫して主人公である母の視点で描かれたこの作品に三人称である「彼女」が出現したというのはつまり、「彼女」というのは主人公では無い異なる誰かという事になります。考えてみれば「緋色の糸」というフレーズからして、ショートver.で謳われた「途切れた色」との対比になると考えるのが妥当ですから、この男女の姿というのはつまり夫の裏切りそのものであったと考えるのが妥当であるわけです。そして、幸せな男女の姿を描いた後に描かれる「静かに」、この考察の冒頭で紹介した「折り鶴は木の葉〜」のフレーズへと差し掛かります。「静かに」で区切られたフレーズの後に「途切れた色」を対比として当てはめると、裏切りの果てに燃え上がる恋を静かに暖める男女と、信じていた夫に裏切られ一人残された母というなんとも言えないフレーズに変容するわけです。あらま、酷い話だね。

 そして、最後の「静かに」のフレーズ。ふぃるむが焼ききれ「幸せになるために」全てを忘却の彼方へと追いやった彼女は、眠るぼうやちゃんにそっと手を差し伸べます。彼女にしてみればぼうやちゃんというのは夫と幸せに過ごした日々の残光としての愛娘。そして、そんな愛娘を失った彼女にとっての支えであり、最後の希望なわけですね。愛しき夫の思い出と、亡き娘の存在と一気に押し付けられてぼうやちゃんはたまったもんじゃありません。しかしながらこのぼうやちゃん一体どこから沸いて出てきたのでしょう。作中で歌われる「この子」が亡き娘の事だとするならば、このぼうやちゃんどこからともなく沸いて出てきたようにしか思えません。考えられる可能性はいくつかありますが、この謎は次回「この子の七つのお祝いに」に持ち越すとしましょう。まぁ、もったいぶるほどの事では無いのですが、なんせ「この子の七つのお祝いに」の中核になる考察材料となりますからあえてもったいぶる事にします。気になる人は「映画 この子の七つのお祝いに」でぐぐると良いかもしれません。うふふ。

さて、いい加減結構なテキスト量になってしまいました。残された謎は対の曲である「この子の七つのお祝いに」は次回へ繰越す事に致しましょう。ここまで読んで頂いた奇特なあさきすと諸兄に幸せの風が吹く事を祈って。そろそろマジで夏の暑さに厳戒態勢な片田舎の田園風景より私只野亜峰がお届け致しました。ばいばいまたね!


散文(批評随筆小説等) 最終考察あさき 前夜祭 -幸せを謳う詩- Copyright 只野亜峰 2012-06-28 19:36:05
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