現実へ
動坂昇

 思うに、震災および津波、そして原発事故は少なくとも私たちをふたつの現実に直面させた。ひとつは剥き出しになった現実、すなわちあらゆる想像を超える自然の破壊力だ。もうひとつはいまだ剥き出しになっていない現実、すなわち見えない放射性物質の飛来だ。
あの剥き出しになった現実はいかなる表象も受けつけない。自然そのものの他には、いかなるものもそれを表象することができない。かたや、いまだ剥き出しになっていない現実は実におびただしい解釈を与えられている。誰も真実に到達できないということが、万人が真実性を争うという逆説を呼んでいる。
 この状況において、すべては仮象である、もしくはすべては解釈であるという主張はどのように機能するのだろうか?
 少なくとも一時期支配的だった美学の一傾向がもはや役に立たないのは確かだ。そしておそらく決して少なくない人々がそのことに気づいているだろう。
 すべては仮象である、当事者の味わった経験と Youtube の映像はそれぞれに序列なき価値を持つ、そう信じながら Youtube を通じてのみ状況を認識する者は連帯の根本となる当事者個人の経験を尊重しようとはしないだろう。
 すべては解釈である、現実など存在しない、あらゆるデータとそれに基づく推論はそれぞれに価値を持つ、ならば単に動くものを動かす力を持つ者たちだけが解釈の現実性にこだわらずに事の成り行きを思いのままに左右するだろう。
 しかし今では多くの人がその欺瞞に気づき、ある人々は思索し、ある人々は行動している。彼らを支える美学を組み立てなければならない。


散文(批評随筆小説等) 現実へ Copyright 動坂昇 2012-05-13 23:32:55
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