こわれた護岸をなおしています
木屋 亞万

「こわれた護岸をなおしています」
私にはたしかにそう聞こえる。その男は画家だったので、「こわれたゴーガンをなおしています」だったのかもしれない。アトリエには花瓶にいけられたカサブランカがあった。「ひまわりではないのですね」と私がからかうと、「あれは夏の花ですから」とだけ答えた。その言葉を機に、伏せられていた彼の目はさらに私から遠ざけられた。互いに位置を動かないままではあったが、私と彼との距離はより遠くなった。
 彼は耳に包帯を巻いていた。リンゴの皮を頭に巻いたように赤く染まった包帯だった。気が狂っていたのかもしれないし、誰かに襲われたのかもしれない。彼はとにかくひどく疲れているようだった。目の周りがくぼむように弛んでおり、その窪みによる影と皮膚の黒ずみによって、ひどく暗い色をしていた。目の周りだけが死んでいるようで、顔の中で目が一番遠い部位に思えるほどだった。
 彼は狂気を内に秘めながらも、疲弊のためにそれが出せないでいるのかもしれない。銀色のチューブから絵の具をひねり出す彼の手が、創造性を使い尽くした心から、なおもその残滓をかき集める彼の描画を思わせた。
 「輪郭が絵を築き上げる。それは認めよう。だが外側の皮膚だけが、私を表すのではないように、線は絵の外側でしかない。そうだろ。いや、そうなんだ。それは間違いないんだ」と彼は言った。一度もこちらに視線を移すことなく、作業に没頭しながら独り言のようにそう言ったのだ。
 彼は目の前にあるものを絵に写していった。私と彼は目の構造が違うのか、あるいはひどく捻くれたフィルターを通しているのかは分からない。彼の描く絵は、線という線がうねり尽くしていた。その一本一本の線の短さゆえに、辛うじてその輪郭を描き出している絵が、そのキャンバスには立ち現れていた。そのうねりには、想像を絶する重圧によって歪んだ心と、線としての長さを保てぬ一筆ごとの苦悩が、表現されているように思えた。彼の心で渦を巻く行き場のない生命力が、絵という鏡に映されているのだ。

「こわれた護岸をなおしています」
 私にはたしかにそう聞こえる。彼の絵を描くときの口癖なのだ。彼にとって絵を描くことが「こわれた」を「なおす」ことであることは間違いなさそうだが、彼の言う「護岸」がいったい何なのかということは結局伝わってこないままだ。
 しばらく彼の言葉を反芻しているうちに、彼のいう護岸は「輪郭」なのではないかという解釈が頭に浮かんだ。彼は輪郭だけが絵ではないと言った。それは彼の絵画論ではなく、絵の描線に関する、彼なりの悩みの告白だったのかもしれない。
 こわれている彼の絵の輪郭。私を表すための、そして私を納めておくための、器が壊れているのだ。だから彼の線は歪みながらも、輪郭を追い求める。「こわれた護岸をなおしています」という言葉通り、一つひとつ石を積むようにして護岸工事をしているのだろう。

 こわれることによって失われた護岸と、その修復。つまり彼は「喪失と再生」を、絵を通じて何度も何度も経験しているのだ。この言葉が繰り返されるたび、彼は護岸がこわれている現実と向き合い、今度こそ「こわれていない護岸」になるように「なおす」作業を続けているのだ。

 最後にひとつ申し添えておくと、護岸をこわしているのもまた彼自身だ。彼は花瓶のカサブランカのつぼみが花開くたびに、几帳面にそのおしべの葯を取り除いていた。白い花弁に花粉を撒き散らす雄蕊の葯が、彼の美学に反するらしかった。彼は水が流れ込む機会を、護岸によって奪っている。水が陸地へ流れ込もうと、護岸をこわすたびに、彼はこわれた護岸をなおした。それは水と陸との交わりを、その均衡を保つために阻止することに他ならなかった。護岸も、水も、陸も、彼そのものであり、彼は絵を描くことによって「こわれた護岸をなおし」、心の均衡を保つ。それは同時に彼自身の生命力を、芸術を通して去勢することになっていたのかもしれない。

「こわれた護岸をなおしています」
 その底知れぬ苦悩は、絵を観る者にも、言葉を聞く者にも、恐らく伝わることは無いだろう。


自由詩 こわれた護岸をなおしています Copyright 木屋 亞万 2012-03-23 02:08:09
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