心のギャラリー
さすらいのまーつん

 他人の詩をたくさん読むようになってから、まだ日は浅い。

 詩集というものも、特に自腹を切って買ったことがなく、゛現代詩フォーラム゛が、 僕にとって最初の本格的な読詩経験だと思う。ちょっと気が向いたときにアクセスして、五分ばかりのぞいてみるつもりだったのが、気がつくと一時間くらい経っていた、なんてざらだ。

 いつも驚かされるのが、あまたいる書き手の多様性だ。本当に色々な花が咲いている。その花弁にしても、深みのある色、さっぱりとした薄い色、原色、中間色、蛍光、季節を映し出した色、周りの華やぎを吸い取ってしまうような漆黒、と様々だ。
 毎日毎日、アスファルトの亀裂から元気に顔を出す野草のように、逞しく寄稿してくる人もいるし、数ヶ月に一度、忘れた頃にやってきて、はっとするような美しい翼を蝶のように広げ、また飛び去っていく人もいる。

 僕は、人間というのは、基本的に凡庸な存在だと、どこかで信じていた。若い頃は特にその傾向が強かったような気がする。あまり人とのかかわり合いを持たず、表面的な関係ばかりに終始していたせいもあるかもしれない。
 
 例えば休日の午後、電車に揺られて、どこかに遊びにいくとする。
 子供連れの夫婦が向かいに座ったとしよう。幼い子供が、まだ二十代と思しき母親にじゃれている。それから、周りをゆっくりと見回す。彼(もしくは彼女)にとって、ここは少し異質な世界だ。
 狭い我が家の中で完全に解かれていた警戒心のロープが、両親の中で少しだけきつく締めなおされているのを、その子は敏感に感じ取っている。ふわふわのカーペットを這いながら吸っていた我が家の空気より、ここのそれはちょっと硬いのだ。
 その子は誰かに微笑んでみる。そうすれば、大抵は微笑みが返ってきたから。
 新聞を広げる休日出勤のサラリーマン。携帯を睨む着飾った若い女。雑談に興じる若い男の二人連れ。 惜しむらくは、子供に相好を崩してくれる年配の人々も、母性をもてあました若い女性も近くにはいない。
 
 誰も微笑み返さない。
 僕もまた、無関心にその子の微笑を見詰め返す。若い頃の自分はそんな感じだった。
 
 目の前の三人は、゛幸せそうな家族゛という記号に過ぎず、その見かけの下に様々な現実を抱えているであろうという想像は、まるで働かなかった。
 自分の前を通り過ぎていく無数の単位-‥男/女、大人/子供、老人/若者、学生/社会人、人という人は全て、分かりやすいレッテルで仕分けられ、ボール紙で出来たぺらぺらの人形のように、記憶や経験という箱の中に手際よく仕分けられていった。
 
 僕にとってリアルに感じられる唯一の対象は、自分がどう感じているか、ということだった。他人の内面は想像の枠外だった。暴力を振るう人間が、他人を傷つけて自分の存在を確認するということが、僕には理解できなかった。傷つく、という能力を本当に持っているのは、自分しかいない、とどこかで信じていたからだろう。とんでもないエゴイストだが‥

 さびしい人間だと、われながら思う。時々言葉で人の神経を逆なでしてしまう訳は、相手の人間性を実感できない、僕の感覚の鈍さにあるのだろう。相手を人間扱いしていないのだから、傷つけてしまうのは当たり前だ。さびしいから近づくという利己的な動機で動いているから、相手の心など見えてはいない。そのくせ言葉の扱いに妙になじんでるから、たやすく距離を詰めていく。
 むき出しの果実を、ハサミで掴もうとするようなものだ。

 ここまで書いてきて、少し気が滅入ってきた。天気のいい土曜日の午後に考えるには、ちょっと相応しくなかったかもしれない。散歩でもしてくるか。いや、途中で放り投げるのもなんだから、もう少し続けよう。

 さっきの子供の話に戻ると、今の僕なら、彼/彼女に向かって、ちらっと微笑を返すぐらいのことはする。カジノのディーラーが素早くカードを切るとき、その手元に垣間見せるハートマークと同じぐらいの、刹那の間だけだが。
 とにかく、見知らぬ人の間でも、微笑がジェスチャーとして通用する程度には、マトモな世界に君はいるんだよと、その子供に伝えたい。

 さて、詩の話に戻る。ここまでの話とどうつながるのかというと、つまり、詩も一種のジェスチャーみたいなものなのではないか、という流れになる。どんな仕草にもいくらかの真実が含まれているように、どんなに虚飾にまみれた詩にも、いくらかの真情が含まれている。
 そしておそらく、その作品が優れていればいるほど、書き手の心はより忠実に言葉の上に反映される。ただし、その表情は、あどけない子供の微笑みより、はるかに多様だ。
 
 泣いたり、叫んだり、慟哭したり、弾けるように笑ったり、遠い眼をして振り返ったり、ため息をついてささくれた両手を見詰めたり、激しく糾弾したり、夢見心地にうっとりしたり、思いがけなく見出した、かけがいのない何かに瞠目したり、と、まさに百花繚乱のおもむきがある。
 
 人って面白い存在なんだなと、失礼な言い草かもしれないけど、僕はそう思った。このサイトに来ると、何食わぬ顔で通りを歩いていく他人達の抱えている、底知れない経験の泉を、ちょっとだけのぞき見ることが出来る気がする。
 
 平凡な人など一人もいなかった。個性がないと悩んでいる人でさえ、その悩んでいる有りようが充分に独特なので、思わず毒にしかならない気休めをかけたくなるほどだ。

 ここは僕にとって、ある種のギャラリーを思わせる場所。
 人が人であることを思い出させてくれる、一番貴重なもの‥心を展示している。絵画、音楽、舞踏、演劇、他にも、人の内面を表す分野はたくさんあるのだろうが、ぼくにはこの、比較的短い言葉による表現が、どういうわけか特別な世界のひとつとして、存在しはじめたようだ。

 キレイにまとめすぎたかな?
 (まとまってないって?)


散文(批評随筆小説等) 心のギャラリー Copyright さすらいのまーつん 2011-10-29 13:44:03
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