詩の批評と題する散文批判
……とある蛙

 詩の批評らしき散文は、現代詩フォーラムは当然のこととして、あらゆる詩の投稿サイトでは当然のこととして、返信という形や独立の散文という形で投稿されております。
 詩の批評的なものはほんの一言の感想から立派な評論的なものまで千差万別に投稿されております。
 私も詩を書き始めてから3年ちょっと、現代詩フォーラムに投稿するようになってから23ヶ月あまり、いろいろなご批評を受け、あるいは自ら感想を書いたりしております。
 しかし、当初から感じていたある種の違和感があり、それに関して短いですが書きたいと思います。
 
 つまり、今いろいろなところで行っている詩の批評のやり方が妥当なのかと言うことです。少なくとも日本の文学史では口語自由詩の評論の基準やまともな批評方法を論じたものはありません。あるかも知りませんが、私は不勉強で知りません。個別の評論は知っています。
 現在の批評とか感想とかは、極論すれば適当なところを引用して自分の感じた本当にアバウトな良い悪いで話を勧めているのではないかと考えれます。また、詩に関しての定見が独善であるのは仕方ないとしても、ともかく多様性を認めず、単にけちをつけているとか 因縁をつけているのかと いうようなレベルの散文がまま見受けられるからです。
 そこに客観的な基準となるスケールはありません。あくまでも好きと嫌いの二者択一を小難しく書いているだけです。

その原因の一つには日本の口語自由詩というものが何でもありの世界になってしまい過去の日本の詩歌の遺産をきちんと継承していないことから生まれた混乱だとも言えます。

つまり、断片的すぎて詩に関する体系的な考えがほとんどありません。もっとも入沢康夫さんがある程度書いていますが、頭の悪い私には理解不能です。

結局、入沢さんは「詩と言葉の美しさ」というエッセイで
藤原定家→適切に選ばれ、適切に置かれた語句の美しさ
判断基準は作者の美意識

詩は事件事象感懐の再現か?
美とは一種の幻惑感、郷愁と憧れ、嫌悪と畏怖、畏敬と冒涜への衝動
を同時に感ずるもの。原本としての美などない複本である。とし、

知力、構築力と幻惑感との堪えざる拮抗→詩作品の鍵
内容と形式は絶えず役割を交代する?作品のテーマ、モチーフの思想性のみの議論は低次な段階ではないか、現状は足踏みしている。

韻律や音数論は議論されるべき課題が山積している。

しかし、その一方表言技巧に矮小化されるべきでない。

私は入沢さんは詩の即興性/即時性を見失っているとも考えられます。

これらの検討を経て
日本語という言葉における美を実現するため、適切に選ばれ、適切に置かれた語句の選択ができるかという藤原定家の問題提起を口語自由詩にあてはめているようです。

しかし、これは難題で解決のつく問題ではありません。結局、入沢康夫自身最終的にはざっくりと 詩のキモは胸に生ずるなにか、言い方を変えると感動だと言っています。  

一つのおおざっぱな方法ですが、修辞学の考え方を基準に評価検討してはどうでしょうか?

仮にここにつまらない詩が投稿されているとします。

なぜつまらないのでしょうか?次のような理由があると思います(笑)。

まず、書いている内容がつまらないのかも知れません。次に書いている内容が分かりにくいのかも知れません。さらには構成にメリハリが無い割には長かったりしているのかも知れません。全然社会的に影響のない内容でありながら鼻持ちならないインテリ臭さが臭うものかも知れません。また、他の詩と似たり寄ったりの没個性的なものかも知れません。

この感覚を詳しく説明すれば次のとおりになります。

修辞学の考え方に沿って説明します。

つまり、?発想?配置?修辞(表現)狭義のレトリックです。あと?記憶?発表と続きます。

※??はさしあたって関係ないので省きます。

?発想がつまらなければ内容がつまらないのは当然です。
この詩が室内で何かをこねくり回しているようではつまらないものが多くなります。詩人と称する人たち!もっと外に出よう。人生を経験しよう。詩人以外の人とまともに付き合おう(マラルメやヴァレリーでなくランボーになろう)。

?配置 つまり構成の問題です。
 言葉の配置によって思っていることを削り出そうとしているのが詩という芸術であれば、言葉の配置こそ一番重要であるとも言えます。構成に関して何の言及もない人が多いのはどういうことか疑問です。と言うか、真実は行き当たりばったりで書いている人が多いのでやむを得ないかも知れません。天才あるいは熟練工的な人であれば何も考慮しなくとも書けるでしょうが。詩の構成についての詩論というのはあまりお目に掛かったことがありませんが、論ずるだけの価値があると思います。もっとも?とも関連しますが。

?でようやく狭義のレトリックの問題です。直喩、隠喩、換喩、誇張そのほから多数表現方法はあります。問題の根底には荒地派以来の隠喩偏重論があります。
隠喩偏重の詩には次のような疑問があります。

第1に 詩を書いているヒトと読み手との間で喩えに対する共通理解がないのにもかかわらず 漫然と隠喩を中心に詩を成立させようとする無理があるからです。
 ただその詩をなんとなく無難に読むことも可能ですが、詩を読むスリルがなくなっています。
 読者の中には詩においてもつじつま合わせをしようとする解釈(?)をしている人もいます。または、その反対に筆者側の踰法の独善から自己満足な詩になってしまうこともあります。その場合は最悪で、何も読み取ることはできません。踰法の独善は結局喩えの背景に読み取るためのロジックが用意されていないから独善に陥るのだと思います。
 もし、かような手法をとるにはやはり作者と読者との背景のロジックを理解するだけの共同体意識の成立が必要でしょうか。
第2に 書き手側にこの詩は難解だがすばらしい(?)と押し付けがましく書いている傲慢さがあるのかも知れません。
 共通理解がなく読んでいると読み手側が迷惑に感じることがあります。自分がインテリであることやナィーブなのだというような押し付けがましい詩はもっと迷惑ですが。
 結局同じような詩を書く人同士でうまいだのへただのやっている世界になってしまっています。

第3に 飛び抜けてうまくなければ技術のみでは感動を与えられないにもかかわらず、少々うまい程度で感動が与えられると勘違いしている傲慢さが鼻につく表現がある(多い?)のかも知れません。
 驚くほどうまければ感動すると思います。でもそのようなレベルがどんなレベルなのか接したことがないので分かりません(楽器の演奏など音楽の世界ではままあります。)。
 作者の恣意に依存するところの大きい隠喩が多用されている詩は読みにくいし。恣意的な隠喩を出来るだけ避け軽やかな詩を書くべきである。と誰かも書いていましたが、これら留意して書いてもらいたいものです。

※隠喩中心の詩はもう卒業すべきではないだろうか と思います。
  隠喩による表現をせざるを得ない場合はその背景にロジックがなければひとりよがり の表現になってしまいます。この点注意が必要です。

 ここまで書いてしまうと詩の作法というか、詩の書き方の問題とも深く関わってきそうです。やはりある程度散漫になってしまいます。簡単には論じられない問題ですね。

閑話休題

 陳腐なしごく私的な詩も淘汰されない。時代がくる。と入沢康雄氏も言っています。
「これからはかなりひどい時代になるのではないだろうか。お互い誰が何をしているかわからないという孤独な作業の時代になるかもしれない。……それぞれが勝手に詩を書いてそれを詩集にまとめて出せば、一応のほめたり、けなしたりはあるけれども、だからといってそのほめられたものが、ほかに大きな影響を与え新しい流れができるとか、陳腐なものやみかけだおしのものが淘汰されていくということもない。醒めたといえば醒めたといえる時代がここ十年は続く。」
入沢康夫の1970年代の発言です。相当程度現在にも妥当します。ネット詩の点だけが少し異なりますが。

 もう30年以上もこんな状態が続きていいます。ネット詩に至っては最初からずっとこんな時代です。そんな詩、人に見せるものじゃないでしょうと言うくらいのものでも匿名性があるので、そのまま公開されます。顔を見せないストリップです。そのヌードが美しければ問題在りませんが、醜悪な場合は単なる迷惑かも知れません。
 そうでなければ荒地派の隠喩レトリックの王様論そのままの詩もあります。

 書きたいことの切り口、発想(モチーフをどのように詩として成立させるか)についてほとんど考えたあとが無く、ただ思いつくまま書いているような詩が多いということがあげられます。
 生のまま書かれても、興味のないことはほとんど読む気がしません。特に作者の感懐をそのまま書かれても ヒクしかありません。

 このままでは結局作者と読者との関係性に強く依存していると言わざるを得ません。
 詩の論評と称するものは幾らでも独善的な批評が可能です。。

 詩の内容などは極論すれば詩を換骨奪胎することによって、ほとんど意味が失われることが可能なものです。
 批評のやり方によっては全くつまらない詩だということも当然書けます。
 
 嫌いな詩(嫌いな人)は行間を無視すれば 当然陳腐な内容になることを知らなければならないと思います。

 また、論理的な詩ではないのに散文的な基準で批判をしたり、逆に独りよがりの暗喩を良いと言ったり、結局詩の持つエネルギーを拡張するような批評は見あたりません。

 ひどい者ではこれは詩ですらないとか、詩を冒涜しているとか、さらにはそのようなもの(その人の詩を最近読んだことがありません)を書くな※という趣旨の恫喝まがいのことを平気で書いている方もいらっしゃいます。

 ※その人は平然とインチキな散文を書いています。自分の主張を通すためには自己矛盾  どころか、真っ赤な嘘すら平気でつくお方ですので。
 
 このことは他人の表現に対する何の根拠もない単なる侮辱であり、嫌がらせでしかないと思います。こんなことを平然と書いて、それが正しいと言わんばかりの暴言を平気で行うことは批評ではありません。
「最小限の社会性(社会認識、判断、知識)」もない人がいるのかとすら思いました。
 そういう人に限って自分は社会性があるなどと勘違いで寝とぼけたことを言っております。

 ことほどさように詩の批評は難しいものです。丸谷才一のように詩は酒の肴になるとでも表題をつけて語った方が良いのかも知れません。丸谷さんは私と似ていていて荒地派とか観念的なものが先行しているものは苦手だ。 としています。
 つまり、言葉の選び方の感性が粗雑なため(美しくないのね)、読んでいて楽しくないだけでなく顔をしかめたくなるものが多いからです。
 「櫂」の同人の人たちのものの方がずっと読んでいて楽しいのも似ています。大岡信さんが好きみたいです。和歌の素養がありますものね。
 個人的には焦らずにいろいろな詩を偏見無く読んで行くしかないとは思いますが。
この世界も少し楽しくやれないかなぁ と思います。現代文学は詩を失ったッとさえ言っている人が多いのですから。


散文(批評随筆小説等) 詩の批評と題する散文批判 Copyright ……とある蛙 2011-05-06 12:07:28
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