聖域
salco

機上で
伯母は落下し脳挫傷で眠る孫の為に
満腔の震えを帯びた痩躯を折り
瞑目で何やら呟きながら手かざしを始めるのだった
高度1万2千メートルからの この上なく真摯な神通力が
ポリカーボネイドの窓を通って眼下の雲海を貫き
一体どこに伝わるというのか
善良な苦労人から金を巻き上げて来た教団が呪わしかった

脳外科に着くと
片隅の床にロマのような固まりがあり
数人の親戚の中に従兄あにと、毛布の中に義姉がいた
「ああ、お義母さん」力ない愁嘆が渦を巻き、すっと止んで
意識不明のまま血腫除去の手術を受けた子は
予断を許さない状態ではあるが今、頑張っていると
そんな言葉は聞きたくもないであろう義姉は
俯けていた顔を上げると「来てくれて、迷惑かけてね」と
焦点のない微笑を浮かべ
眼を閉じ従兄と額を合わせて動かなくなった

メモ魔の従兄は
書き留める事で理性にしがみついているようで
ちいさな手帳に次男のバイタルを逐一記録しているのだった
それはもはや言葉を発しない息子の生でもあった
80後半を微動している脳圧が100を越えたらまずいのだと
それは即ち脳死を意味すると 目を泳がせながら説明してくれた
ICUの最奥で
頭に包帯を巻かれた子は片目を開けていた
瞬きしない目尻から涙を流し虚空を見ている
去年より精悍な面立ちの左目には畳んだガーゼが置かれ
電子音に囲まれて、無表情というより不機嫌そうに見えた
意識があるとはとても思えないのに、助かる気がした
言葉をかけてあげて下さいね
陽だまりのような看護婦が言い、父親以外の皆が声をかけた

帰京後
叔母の一人がユターを呼んだと聞いた
宜野湾から来た評判の霊媒は玄関先の犬を見て
「あの犬がとても心配している。大変に可愛がっていたのだから
その子は必ず助かる」と
財布を全開したバアさん連中に大いなる安堵を与えた
拝み屋など信じていなかったが、私も回復を信じていた
故障が残っても、植物状態でも生き続けて欲しかったのだ
脳の腫れは治まらず100に至り、超え
それでも自発呼吸で頑張り抜いて逝った

私達の祈りは
この上なく真摯だったが、非力ゆえに子を守れなかった
人の生命力、若い脳組織の回復力に望みをつないだ医療も
実質的に担当医の祈りであった1時間の心臓マッサージも
奪還の力にならなかった
伯母の教祖やユターは言うだろうか
何らかの霊的素因が、見えた運命の確定要素に介入したのだろう、と
私達が回復を信じたのは、それを最も信じたかったからだ
それしか策がなかった、ただそれだけの事だ

当時は、
恋愛も知らずに死んだ彼が哀れでならなかったが
今は、手段としての言葉を最小限しか持たぬ子が坩堝に投げ込まれ
他人の靴底を舐めるような思いをせずに済んだのを慰めにしている
あれから変わらず空の下を飄々と歩いてくれていたらいいと
ずっと思い描いている
近しい何人かがそこへ行った
母方の祖父母も父方の大叔母も、今また従兄のトモにーにーも
交通事故の後遺症と損なった肝臓から解放されて
彼の含羞と厭世を脅かさない語りかけをしているだろう
皆が再びまみえるのも、もう遠い先の事ではない
こうした慰めの空想はしかし
余人の関与や宗教の介在を要するものではないのだ
その場所は
家族というサークルの中空に温存され、実在する


自由詩 聖域 Copyright salco 2011-04-13 22:29:51
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