【批評祭参加作品】自分の「批評」について
番田 

批評とは、一体何なのか。批評される側の立場で考えても面白いものだ。面白くはないのはその散文の内容自体なのかもしれない。完成度の低い文を読まされていても面白くないと思うのは、この目に感じずとも明らかだ。そう思わないのなら、もっと楽しいと思えるような流れを展開したいのだけれど。人は皆、そう思えているような気になる。ベテランは自分の中の思いを過去に遡りつつ、語り始めるのかもしれない。それはとても意味不明なことである。真の書き手の姿が欲しい。


現代社会は、そういった真撃な内容に欠けた思いを生み出す構造に満ちている。創造的ではないのだともいえるかもしれない。私たち自身の姿なのである。退廃的な感情を、長く続けられてきた文学の流れの中で反省し始めているのだ。誰もが座っている。誰もが道の中を過去を忘れて歩いて行く。イノシシがどこかで遠吠えを上げたような気にもされている。


完成度の高い作品とは何だろう。現代詩フォーラムに上げられたどんな文を読んでみても、その神髄に触れることは難しいだろう。全てはやりつくされているのだ。現代の社会において、人が芸術家や作家であろうとすることは、本当に難しい状況に変わってきている。ツイッター上においても、著名人が吐く文章に説得力などありはしないのである。庶民は過去の偉人の名言を引用するばかりだ。そのような世界に現代社会を反映するような鋭い感銘を感じとることはできるだろうか。できはしないだろう。多くの表現は、やりつくされているのである。人は昔を省みることでしか、希望の存在するであろう未来の景色を思い描くことはすでにできないのかもしれない。



散文(批評随筆小説等) 【批評祭参加作品】自分の「批評」について Copyright 番田  2011-03-06 02:47:18
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第5回批評祭参加作品