かぐや指
salco

 流星のごとき放物線を描いて降った、20カラットはあろうというその
ダイアモンドには指が付いていたのです。と言うより寧ろ、それは20カ
ラットはあろうというダイアモンドの指輪をつけた指なのでした。
 どす黒い腐汁をまとった石が燦然と輝く下で、黄金色の悪臭をまとう指
は、それでもたった今食いちぎられたかのように白く、すべすべとしてい
ます。明らかに女の、恐らくは右薬指でした。
「何だい、びっくりさせやがって気色悪い」
 お婆さんは指を拾い上げるとさっそく指輪を外しにかかりました。と言
うより寧ろ、指輪から指を外すのです。
 これを売りさばいたら、エルメスどころの騒ぎじゃないよ……。
 そう、所詮バッグの製造コストなど知れたもの、ましてや原革の仕入れ
値など、吹っかけ放題の小売値に比べたらネズミの小便みたいなもので
す。ちなみにお爺さんはというと、指とお婆さんの両方に吐き気を催して
よろけ出て行きました。

 しかしいくらねじっても、腐った血と胃液でぬるぬる滑って上手く行き
ません。おまけに硬直していない指の関節がくにゃくにゃと作業の邪魔を
するようです。
 それではと甕の水を汲んで来て洗ったところ、ダイヤは目を射る程の光
を貧に煤けた室内に投げかけ、薄暗いランプの灯火を反射して、お婆さん
の顔や壁の上でくるくると輪舞を始めました。
「こりゃ、ますますすごいよ」
 と、まるで見た事もない宮殿の大広間で自分自身が踊っているかのよう
に、お婆さんもすっかり夢心地です。洗われた指は透けるように白く、皺
一つない若い女のものと知れ、しみだらけの枯れ枝のような我が手とは別
世界に暮らしていたのが瞭然です。艶やかな楕円の爪にも溝一本ありませ
ん。これがまた全権特使の差し出す降伏状よろしく優越感をくすぐるので
した。
「ケッ、ざまあみろだよ」
 今度はじっくりと食卓に腰を据え、満身の力を込めて引っぱります。次
には貴重な菜種油さえ擦り込んで回そうとしましたが、指輪はびくともし
ません。切断面である指の根元からも、細い筈の指先からも一向に引き抜
けないのです。
「えい畜生、腰に来る」
 頭にも来たお婆さんは、最初からこうすれば良かったんだよとばかり土
間から肉切りナイフを拾い上げると、指の第二関節に突き立てました。い
え、突き立てようとしたのです。

「ギャッ!」

 混声の叫び声が上がった瞬間、何かがお婆さんの右目に突き刺さってい
 ました。
「ナメた真似するんじゃないよ」
 ごく間近で小さな声が言いました。それはリリック・ソプラノの、しか
し鋭い声でした。尖った爪が眼球に食い込み、ぐりぐりと回転しながら中
心を貫きます。声帯にもとうに艶のないお婆さんは、
 グエエエエエ
 と、どちらかと言えばテノールにより近いアルトの絶叫を上げて、仰向
けざまに倒れました。
「このくそ婆あ、いぎたない脳みそを掻き出してやる」
 指は眼球を突き抜けて眼底に達し、視神経をかきむしりつつ眼窩をえぐ
ります。ごりごり。ごりごり。
「やめてぇ! やめてえ、お願ひいぃぃ」


 こちらは胆汁ぐらいしか胃の腑からひり出せないお爺さんが戻って来て
みると、つい先刻まで意気軒昂だった女房が床をのた打ち回っています。
「何をおめえ、柄にもなく生娘みてえな声出しやがって」
 と、よくよく目を凝らしてみれば、押さえた片目から真紅の涙さえ流し
ているではありませんか。
「おんやまあ……」
「痛い痛い! やめてえぇぇ」
 息も絶え絶えなその様子に、ついお爺さんが記憶野の地平線に新婚初
夜を彷彿していると、伏せた顔からまばゆい光がぽろりとこぼれ、とう
とうお婆さんはイってしまいました。

「……婆あ、くたばりやがったか」
 恐る恐る近づいてみると、そこに転がって俄然存在を放っているのは
無論しおらしい新婦のなれの果てではなく、指とダイヤを生やした眼球
なのでした。
 こりゃ、婆あの目ん玉か?
 その時です。
「ちょいと! 馬鹿みたいに突っ立ってないで、この腐れまなこから私
を引き抜くんだよ」
 えも言われぬ可憐な声に呼びかけられて、お爺さんが戸口を振り向き
ますと、
「そっちじゃないよ、このボンクラ」
 常日ごろ聞きなれたセリフではありましたが、無論、それは古女房の
黄ばんだ目玉が発した声である筈もありません。
「さっさと石鹸とぬるま湯で私を洗うんだよ」
   
 ですから湯を沸かすのが遅いとお爺さんが文句を言われ、湯の温度で
金切り声を上げられ、石鹸の材質を誹られ洗い方で爪を立てられ、湯上
り布の品質と拭き方を罵られ、また麝香入りの乳液はおろかオリーヴオ
イルさえ無いのを糾弾され今すぐ入手して来いと恫喝され、しかるのち
は生活程度を愚弄され、人格はおろか人権をまで言下に否定されたのは
言うまでもありません。


    ☟❂☝
  

「いいかい、こんど私に手を出してごらん。墓穴まで暗闇を這いずり回
る羽目になるからね」
 指はお婆さんに言いました。
 あれこれ脅迫めいた命令嫌さに、あの怠け者のお爺さんが見違えるほ
どの早起きをして、夜も明けやらぬ内から働きに出るようになっていま
した。
 無論、一銭にもならぬ盗掘ではなく、堅気の仕事です。ピラミッドを
訪れた観光客に飲用水を売るのです。これは何らかの手段で市当局の許
可を得た業者が行なっておりますが、わずかな日銭と炎天を秤にかける
と、どうしても元気な若い者には不人気な仕事でしたから、お爺さんに
も何とか工面できる袖の下で売り子に加えてもらえたのでした。
 もちろん、お爺さんだってこんなつらい仕事はしたくありません。ひ
んやり暗い石室に座り慣れた老体でまばゆい灼熱に立ちずくめでは、半
時が一日にも感じられ、一日が終わる頃には五年も老いたかのようにふ
らつくのです。けれども指を養う乳製品が今や一日も欠かせず、高級基
礎化粧品を買うにはこつこつ貯金せねばならず、他に帰る先とて無い身
であれば、やはりお婆さんの二の舞は御免こうむりたいのでした。


 頭蓋までも刺し貫かれたかのように、空っぽの眼窩がずきずき痛みま
す。右半分の視界はひと足先に永遠の闇へ葬られてしまいましたが、無
事な左眼も、ここ何日も激痛が及んで涙で霞み、目やにで塞がり、よく
見えません。今は光さえも怖い気がして、お婆さんは擦り切れた掛け布
団を瞼まで引き上げようとしました。
「返事は?」
 指は枕からこめかみへ飛び移ると生え際にこじ入り、髪束を腹に巻き
つけてぎりぎり引っぱりました。
「ああ」
「それから一つ」
「痛い、やめとくれ」
「私を育てるんだよ。大きくするんだ、一人前になるまで」
「やなこった。あっ!」
 と言うのは、指が左瞼の上に滑り降りて来たのでした。
「何だって?」
「ええ、はいよ。わかったよ」
「ただ育てるだけじゃない。私は贅沢三昧に暮らして来たのさ、手練手
管でお姫様みたいにね」
「へぇ。そうかい」
 お姫様だって? 食うにも事欠く家に転がり込んで来て、笑わせるん
じゃないよ。
「ふん、知ってるくせに」
 ここを使うんだよ。とばかり指は、深い横皺が結構な滑り止めになる
額の上でぴょんぴょん飛び跳ねました。
 ああそうさ。起き上がれるようになったら、お前なんざ即、叩き潰し
てくれる。
 お婆さんは金槌だの漬け物石だの箪笥の引出しだの、使えそうな家財
道具を頭の中に並べながら誓いました。そんな心を見透かしてか、指
は、
「何もタダでとは言わないよ」
 椅子がわりのダイアモンドに腰かけると、額に押しつけられた石がひ
んやりと心地良く、これまた4C最高評価(GIA基準)の刺激でお婆
さんの前頭葉を痺れさせます。
「私が大きくなれば、どうなるんだろうね」
「さあね」
「指輪は小さくなるって事よ」
「だから?」
「制約は渇望と飛躍をもたらすのさ」
「だから何だっての」
「ああ、察しが悪いね。これだから貧乏人は嫌だよ。見合った大きさの
が要るだろう?」
「ふん。要るだろうさ」

 つんつるてんの着たきり雀だった少女時代の屈辱がふと脳裏に甦り、
お婆さんははらわたが煮えくり返るような怒りを覚えました。しかしそ
れはみじめな過去に対すると言うよりは、大した変わりばえもなく連綿
と現在へ続いて来た、深く自分にこびりついていながら雲散霧消してし
まった、人生そのものに対する憎悪なのでした。
 自分が望んだわけでもないしょっぱい乳首をあてがわれて以来、不運
と生活苦以外は何一つ今生から与えられはしなかったという感慨が、年
だけは十全に食った身体に吹き荒びます。まことにそれは制約に見合う
渇望だらけの、飛躍だけはさっぱりな時空でした。

 何が報われるわけでもない生活が余りに長期化してしまうと、いつし
か夢や希望などという些末な玩具を、人は頭から放り出してしまいま
す。しかしひび割れた荒れ地に過ぎない現実に一輪の花を見ようとす
る、馬鹿げたフィルターこそはオアシスの源泉であり、たまに人間らし
く生きようとする時には入用な装置なのでした。潤沢な貨幣という交通
手段を持たぬ貧乏人にとっては特に不可欠な、この脳内麻薬が欠乏する
と、その禁断症状は往々にして現実の荒廃に呼応した、慢性的な憤怒や
怨嗟となって心を食い荒らして行くのです。
 通例、現況への失望を相殺するには吊り縄に頭をくぐらす程度の自己
嫌悪で済むのですが、自己に強い執着を抱く人間は、当然それを他者に
よる生活圏の侵害に転化してしまう為、被害意識から衝突と攻撃だけを
繰り返す、いわゆる歪な意欲だけは満々な境界型人格として、噛みつき
犬やブルドーザーよろしく終始世間に唸りを聞かせるわけでした。もち
ろん、実相的には何の威力もない無能者ですから、実効性において大し
た実害を及ぼす道理も無いのですが。

 こうして目に入るもの全てに対する不平・不満がお婆さんの原動力と
なっていたものの、もはや棺に肩まで浸かった齢ともなれば、我が身の
明日を寿ぐ理由も失せてはおります。要は貧しい年寄りに、一体これか
ら何ができるというのでしょう。
 思えばテロリズムなどという、錯誤中毒者の大義もこの時代には流布
しておりませんでした。吐き捨てられたガムや、せいぜいが道端の犬の
糞ほどになった人殺しの肉片を英雄と呼ばわる誤謬に酔うほどのヒマ
が、酒精厳禁の戒律とは言え職業軍人以外の庶民生活の中には息づいて
いなかったのです。まさに天下泰平貧乏閑なし、といった時代でした。
 
「私はね、サイズ直しなんてみみっちい事はしない主義なの」
 その言葉にお婆さんははっと我に返り、その時指は、皺だらけの瞼の
下でお婆さんの残存眼球が素早く左右に動くのを感じました。だから察
しの悪い人種に向けて、歌うように付け加えてやったのです。
「捨てるわけにもいかないしね。誰にくれてやろうかしら。お礼って言
うのも何だけど」
 こうして養子縁組は円満締結されたのでした。


                          つづく


散文(批評随筆小説等) かぐや指 Copyright salco 2011-02-27 20:33:26
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