かぐや指
salco

 むかしむかし、ナイルのほとりに貧しいお爺さんとお婆さんが住んでお
りました。お爺さんはギザへ盗掘に、お婆さんは河へ砂金採りに、今日も
空しいふるいをふるっておりますと、あれ下流からどんぶらこ、どんぶらこ。
褐色の水面に保護色もあざといナイルワニが、これまたあこぎな眼を据え
て、お婆さんの足元へ近づいて来るではありませんか。
「お呼びじゃないよ、こん畜生。お前なんかに食われてたまるかい」
 お婆さんは岸辺の葦原へ軽々跳びのくと、携えていた懐刀ならぬ旧ソ連
製カラシニコフでワニの眉間を一発ずどん!

「ふん、当分こいつの干し肉だよ」
 と言いますのも、沙漠の貧困家庭に電気冷蔵庫や年金生活があろう筈も
なく、歯槽膿漏でぐらつく奥歯に靴底のような肉を噛みしめる思いで、ま
んざらでもない涎を口の端に浮かべながら銃身でどついてみれば、だらし
なく引っくり返ったワニの腹が、何と不思議に光っております。
「何だい、こりゃ珍しい奴だね」
 早速ぶった切ろうと青龍刀を振り上げました。が、
 待てよ。こんなに妖しく光る原革をエルメスに売りさばいたら、一体い
くらのバーキンに…。
 お婆さんは慌てて腰巻をたくし上げると、干からびた尻を躍らせて河へ
飛び込み、ぷかぷかたゆとう獲物の尻尾をむんずと掴むと、
 えええいっ!
 渾身の力で岸へ投げ上げました。
 

 口座番号やシリコンプロテーゼもふんだんな女達が、我勝ちにバッグに
群がっています。ひょっとするとサザビーズだかクリスティーズだか、高
らかに天井を打つ槌音も響きます。しかしそんな逸品を目前にして、今や
お婆さんには手も足も出ません。我を忘れた火事場の何とやらに、かねて
持病の椎間板ヘルニアが目覚めたのでした。
「くそじじい。あの穀潰しの役立たず…」
 今頃あいつはいつものように、けちなコソ泥が千年も前に塞いだ墓穴を
探っては、石ころだの糸屑だのを仔細に選り分けているのだ。こうしてつ
いにお宝をめっけたあたしの助けになろうって時も!
 所帯を持って五十年、いや、あたしを口車に乗せて五十年、初めて役に
立つって時に! 今日こそ切り刻んでやる。いや、今すぐ撃ち殺してくれ
る。

 血走った目で周囲の葦を一本一本引き倒し、やっとの思いで死骸を隠す
と、食いしばった歯槽膿漏の歯列から更に血なまぐさい呪詛を吐きなが
ら、それでも肺呼吸が脊髄を圧迫せぬよう、脚の運びが腰椎を突き上げぬ
よう炎天下に息を殺し、地獄の千里を四つん這い。
 直立二足歩行を一手に支持する腰椎は、こうして重力と進化の逆賊たる
ケダモノの業の深さを、激痛でもって推し測るようであります。何故なら
腱の退化した前肢はともかく無用に長く変形した下肢の為、何よりS字に
湾曲したエレクトスな脊柱の為に、四つ足歩行はどんな下等な畜生よりも
不様で緩慢にならざるを得ません。
 元来エテ公より速く走れたためしも無いくせに、前肢を自在に振り回し
て闊歩する事で、地平を睥睨するかのような優越感にしがみついて来た人
類が地面を這いつくばる時、その姿は無力な赤ん坊や虫けらさながら。ご
自慢の大脳新皮質や飛び道具も大した方便にはならないものです。
 次第に日は傾き、何匹ものフンコロガシに傍らを追い抜かれ、死ぬ思い
で戸口に辿り着いた時には、口の中まで砂まみれのお婆さんは文字通り墓
から甦った悪鬼さながら。ごま塩頭を振り乱し、白眼を剥いて何やら吼え
るその様に、出迎えたお爺さんまで腰を抜かしかけたのは言うまでもあり
ません。

 
    ☟❂☝  


 三里も先の町でパン屋を営む実直な甥に言い募って何とかロバと荷車を
借り、お爺さんが獲物を家へ運び帰ったのは真夜中でした。

 夜のナイル河畔は真っ暗で、手許の明かりを一歩先で飲み込んでしま
い、どこまでが岸やら見当もつきません。水音で川辺と知れたとて、広大
な葦原のどの辺りに獲物が横たわっているのか尋ね歩くこの足音を、闇に
溶けた不気味な水中から狙いすましている捕食者の、それこそ獲物に今し
も自分がなるやもしれない。
「こんなに腹を減らした年寄りを食うなんて、そんな条理はあるもんじゃ
ねえぞ」
 根性曲がりのロバがますます嫌がって踏ん張るのを何度もどやしつけ、
ロバよりは幾分か詳細な想像力で怯える生存本能を励ましつつ何とか目的
を遂げたのは、何としても肉料理にありつきたいという、ただその一念か
らでした。
 だからそのまま持って帰って来いと喚かれた通りにはしたものの、飯の
支度もせずにふて寝を決め込むお婆さんへのむかっ腹はどうにも収まりま
せん。空きっ腹のまま、寿命が縮むような恐怖を味わい重労働をさせられ
た上、沙漠の夜は骨に沁みるほど冷え込んでいましたが、何ということで
しょう、日中の灼熱に放置されていたワニは、早くも傷み始めていたので
す。
「あの因業婆あ、みすみす御馳走を腐らせおって」
 今夜こそ蹴り殺してやる、へっついの緑青をたんまり舐めさせてくれる
ぞ。お爺さんもたっぷり意趣を反芻しながら帰宅したわけでした。


「おい婆あ、わたも抜かねえとはどういう了見だ。とうとうモウロクしや
がって」
 どさり! と、でっぷり肥えたワニの死骸を土間に降ろせば、隙間だら
けのあばら家にたちまち生臭い死が立ちこめました。
 だましだまし寝台に半身起こしたお婆さんは中山式コルセットを装着し
ており、間髪入れず枕元の急須をお爺さんに向かって投げつけました。
「じゃかあしい! あたしの獲物だよ。さっさと肉切りを持って来な」
「嫌だ、わしは腹ぺこなんだ。もう働かねえぞ」
 思わずお婆さんは、腰をかばいつつも腹を抱えて哄笑したものです。
「働いた事なんか一度でもあるのかい、甲斐性なし。ひひひ、墓荒らしじ
ゃなく毎日砂嵐でさ」

 今度こそ殺してやる。お爺さんはぼろ雑巾にも似た自尊心に誓ったもの
です。すごすごと台所から持って来たナイフを持つ手がわなわなと震えて
おります。けれどもお婆さんは既に、アメリカ製M16A2突撃銃の照準
を標的の眉間にぴたりと合わせていたのでした。そして威嚇と懐柔こそが
間抜けを操るセオリーである事をも知悉しており、
「さあ、さあ! 肉なんざどうでもいいよ。好きなだけくれてやるわ」
 と、今度は牙ならぬ部分入れ歯をすぼめた唇に収め、猫撫で声を出すの
でした。
「本当かい」
「皮はあたしのもんだからね。脇から剥ぐんだ、腹を傷つけないように」
「何でまた」
「何でもさ」
 このごうつくばりが何の気紛れで噛み切れもしない皮など欲しがるの
か。お爺さんは目ざとくいぶかしんだのですが、いかんせん白内障で何で
もぼんやり霞んで見える為、この腹の輝きが見分けられません。まさにお
婆さんの思うツボでした。

 臭いとは言え腐っても何とやら、一刻も早く可愛い舌を喜ばせてやりた
いと盛んに唾液を分泌しながら、お爺さんは見事な手際で脇腹をかっさば
きました。
 さすがは窃盗罪で前科三犯、若かりし頃には追い剥ぎをしていただけの
事はあります。とりわけ抗う術を知らぬ子供や死体から身ぐるみ剥がすは
お手のもの、分厚い生皮は下顎の先端から前肢、胸から腹へ向けてべりべ
りと剥がれ、膨張した腹膜が無傷で露われると、立ち上がったお爺さんは
後肢にとりかかり、尻尾にも回り込んで剥いで行きます。

 一方、お婆さんは我が目を疑い、上顎から部分入れ歯が脱落するほど愕
然としました。お爺さんの背中ごしに見える腹の皮が、今は燃えさしほど
の光さえ宿していないのです。
 余りの衝撃に目眩を覚えたその時です、己が眼球と共にぐらぐら揺れる
床の先に、先刻までの皮より余程まばゆく光る横隔膜を見たのでした。
 そうだったのか!
 寝床から転げ落ちるが早いか、
「ええい、ろふぃなどきな
 お爺さんからナイフをひったくると跪き、まるでエクスカリバーでとど
めでも刺すように、両手を振り下ろしました。
 
 ぼはっふ!!! 
 
 腐敗ガスの強烈な臭気が黒ずんだ血しぶきと共に顔を直撃し、お婆さん
はアッパーカットを食らったかのようにのけぞりました。あっ、つい、間
板が…。
「おい何しやがる婆あ、約束が…」
 言いかけたお爺さんも傍らで思わず息を飲みます。
 ぽっかり開いた胃袋の中、半ばヘドロ化した内容物に浮かぶ、それは濁
った水晶体の目にも絢な、ぎらぎらとまばゆい光を放射する鉱石でした。
「ダ。……ダイヤだ。これはダイヤだよ」
 既に疼痛はどこへやら、お婆さんは声にもならぬ声で呟くと、その信じ
難い大きさに恐る恐る触れ、ずっしり重いその石を摘まみ出すと、
「うわっ」
 と叫んで放り出してしまいました。


                              つづく


散文(批評随筆小説等) かぐや指 Copyright salco 2011-02-25 00:11:55
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