映画 北野武監督作 『Dolls』 の黄色い車〜〜〜
ヨルノテガム









あ どもども 見知らぬ皆さん こんちくわ

えっと ヨルノテガムと申します てへ

この頃 何か映画批評のようなものを書きたい と思ってまして
何か ズボラして やらないで居てしまうことが多いので
今回は ええい 散文のコノかすかな緊張感の下で半ば即興的に書いちゃおうと思い実行してみる次第です 頭の中には 微かに ぼんやりと 文にしてみたいような雰囲気はあるつもりが 長く続いていたので 秋の、芸術の秋 読書の秋 創作の秋として ひとり盛り上がって書いちゃおうと決めてみました
毎回 この散文は 書き加えられたり削られたりしちゃいます
この手法は やっちゃダメ と言われたら 止めますけど まあ10月か11月いっぱいくらいで出来上がるようなものを書いていきたいと思ってます
ひっそりと ある散文が完成されるのを 何度か読者は見るようなことになるのですが そんなことはブログかなんかでヤレ と言われれば そうですね と思うんですが まあ 折角なんで 詩的に 交流が広がるキッカケになりはしないか と読者の感性にも三分の一くらい(散文だけにw)依存して 色んな見方が出てきたりしないものか なーんて期待もしてみる次第です

ポインツは特に全く要らないんですけど
鋭い指摘などがあれば コメントや感想があれば イイやなぁ なんて思ってます
ま 本心では 読者に期待はしてないんですが 創作の刺激になることがお互いあればイイナ ぐらいのことは常に思ってます よろぴく

ではでは

さてさて





映画は好きで借りてよく見る方なんですけど 先日 松本人志監督作の「しんぼる」を遅まきながら借りまして とても面白かったです 発表当初はネットの書き込みで えらいボロボロに言われてたんですが 遅れること一年程かな? さて実際自分で見てみると 僕の中で 映画らしい映画 というか 作者の独自性が出ている作なので 見ていてつまらないことは無かったですね なんだろ 見る時期というものが人にはあるんじゃないかな と思いますね 自分のペースで見ていくことって大切。 ここのフォーラムの詩でも 読者に届く日って 必ずしも直ぐではなく 近日でもなく 後々なんじゃないかなとも思います まして 一人の読者が一つの作に 出会って感動をする というのは 針と糸のような地点と時間を思いますね 感動にも種類があって 簡単で手軽なものから難解なものまで 『 ナニを見止めるか 』 というのも既に 芸術足りうることであると思います 鑑賞者が既に芸術の一端を背負わされている のも 大いに着目するべきだし そういう作品と鑑賞者の間で議論することは 相互の向上に 大切な過程だといえます

私たちが 面白い感想を添えるということ 他者と同じでない感想を提出をできること というのは これからもっと フランクで気軽であっていいし もっと精密で繊細でよいとも思います 僕は キタニストですが ←北野武の映画ファンのこと それが土台になって基準になって 自分の中で色んな感動の優劣があります フェデリコ・フェリーニは白黒映画の鮮烈さもあって金字塔に思えるし ウォン・カーウァイにもハマリましたね大学生の頃に。 近頃は 韓国のキム・ギドク や ホン・サンスが印象的で感動的でした
どうやら 僕は映画に 監督の独自性が溢れているモノが好みで そういう創作者になりたいという願望は常々持っています あこがれがある というのはとても幸せな状態なんじゃなかな と思います 遠景だけでなく近景へと歩み進むのは 創作者だけでなく鑑賞者もであり 迷いながら歩くことでは 皆、探検隊なのです 映画の創作者たちが歩いた道を 再発見再探訪することで 思いの紀行を辿りたい という気もあるし 別ルートで歩むなんてことも結構愉しいんじゃないかな と思ってみたり。 サスペンスの崖みたいな所に出たりして つってw まあ それくらい 頑張って端まで分析してみたい 気もしますけど さてさて






人によって 見るポイントが違う というのは当たり前のようにあるんですけど
「Dolls」を何回か見てて またしばらくしてからも見たりして このおはなしの前半くらいに出てくる 主人公の乗っている黄色い車 がなんだかとても気になりまして ココから思いの発露が整理されて溢れはしないだろうか と頼りない閃き がウズウズと湧きまして 作品の独自性やら意図などは どのように言葉にして観測したらいいのだろう という気が起こってきました ま 改めて簡単に言うと 何かが違う という匂いを嗅いだ気になった と言い換えることができるかもしれません 
学生の時に小さな映画館で見た無名の篠崎誠監督作「おかえり」という題の一場面 秋の丘の葉のこぼれる景色に寺島進のあぐらをかいて座る膝に眠る妻役の女性 といった かすかなワンカットが忘れられないくらい綺麗なカットだったとか そういう個別の思いが 今 たまたまパッと出てきた連関する記憶の綾 が その黄色い車 をキッカケとして始まるような気がしたのです
こじつけ ですけどw

赤でも水色でもない 黄色い車 の走る姿が(後で その車は乗り捨てられるんですが)あらゆる閃きの扉の入り口に思えたのです
受け入れられる心地良い「ナゼだ?」の扉です
その一から十をつくり出すつもりで 何かしら文章を書いてみます






前出の「しんぼる」のレビューを ネットで色々見てたんですけど ま 他人の感想ですね 最後のシーン、主人公が未来に大きなシンボルに触れかかるという場面が「2001年宇宙の旅」へのオマージュだ と言う批評があって とても面白い見方だなと納得しました 赤ちゃんのおちんちんというシンボルが 触れると進化を促すモノリス(不思議な扉)として捉えられているという解釈です
松本監督の映画が色んな種類の笑いの要素で配置されてるように われわれ鑑賞者の反応も あらゆる段階で提出されているものだなぁ とレベルや段階を感じさせました
どのレベルや段階でも構わないのですが レベルが上がったり深い段階になるほど 嬉しく愉しいものだと思います またそういうものは嬉しがられたり愉しがられたりしたがるひとのところへ呼ばれたり呼んだりするものなのかもしれません
そういうことを支離滅裂になるかもしれませんが書き出してみたいです



つづく
















散文(批評随筆小説等) 映画 北野武監督作 『Dolls』 の黄色い車〜〜〜 Copyright ヨルノテガム 2010-10-07 01:30:01
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