人格的な、入道雲、青い空   mixi日記より
前田ふむふむ


朝方にゆったりとした気分で、散歩をしていると、
ようやく眼を覚ましている住宅地、その街並みに、申し訳そうに咲いている草花、入道雲、青い空、次々と目にはいり、通り過ぎていく、その時、僕は、朝の空気のよさに、気持よく浸っている。そして、ある主観的な満足感をえている。よくある、当たり前のような出来事である。
しかし、その状況を考えると、僕は、単に自然を皮相的に認識して、それに対して讃美に近い気持になっているかもしれない。それは、自然を、一般的な感想に近い形で、あるいは、僕とは明らかに一定の距離を置いたものとして、一方的にみているといえるだろう。というのは、つまり、僕はある主観的な満足感を得てはいるが、住宅街であり、草花であり、入道雲であり、空であり、それら自然からは、それ以上の、あるいはそれ以下の返事を、僕は貰わないからであり、貰おうとしていないからである。
でも、僕のこの傍観的な態度(この言葉にも問題はあるかもしれないが)をあらためて、住宅街、草花、入道雲、空に、人格(あるいは、人格に近い思念のようなもの)を与えたらどうだろうか。
人格的な自然は、単なる物ではなくなってくる。
彼らは、雄弁に語りだすだろう。つまり、一般的な自然ではなく独自の個性をもった、唯一の住宅街、草花、入道雲、空に、なるのである。そうすると、雄弁な自然が、僕との距離を埋めて、僕を見ている存在として現れてくる。その時、自然と僕との対話がある。それは、自然に包括された僕として、僕の中で、僕にしか認識できない自然があり、常に自然は、僕の経験のあり方と、等しい個性として存在してくるのである。
自然との対話、僕という範疇において行われる、その行為に、僕は、自然に意味を見出し、自然を通して、僕自身に意味を見出すのである。
いわば、大袈裟に言えば、歴史的な存在としての自分をみつけるのである。
そこで、見出すものは、ときに、生身の苦悩である場合もあるだろう。
酒で祝う喜ばしいことであるかもしれない。
あるいは、痛みの伴わない、物語のようなものである場合もあるだろう。

ひとつの例をあげてみよう。
僕は、東京の下町にある駐車場にいる。
その駐車場は、僕だけの特別の場所である。
多くのひとは、狭い民家に囲まれた、わずか三十坪程度の、屋根を持たないところであり、
雑草が所々生えている冴えない駐車場とみるだろう。中にはその場所を通る人でも、
意識の中では消去されている場合もあるかもしれない。一面青い空なのに、そのことは脳裏に無く、晴れているということで、空という自然をみているようにである。
しかし、ここは、僕が生まれた所であり、三十年前まで、僕ら家族が住んでいた木造の家があった。幼稚園、小学校、中学校とこの家から通っていて、楽しかった幼少の頃を思い出す。
駐車場の東側は、母が台所で食事を作っていた所だ、西側に父の部屋があった。
当時、珍しかったテレビが僕の家にはあり、近所の幼い悪友数人といっしょに、ガヤガヤと騒ぎながら見たものである。とても懐かしい場所である。
確か十八年くらい前、この場所に来た時には、
まだ、木造の家が建っており、誰が住んでいるのか分らなかったが、家の中に灯りが燈っていた。その後、取り壊されたのだろう、いまはその痕跡は全く無く、
自家用車が3台、整列して停まっている。
僕にとって、この駐車場は、単なる狭い駐車場ではない、ここには、今も、僕の家があり、
僕の家族五人で住んでいるのである。やがて、僕が駐車場を見ているように、その家の建っている駐車場は、僕をみている。そして話しかけてくる、幼少の記憶が詰まっている僕の歴史を、話してくるのだ。

こうして
さらに駐車場という場所は、僕にとって普遍的なものとなる。駐車場という存在全般が、僕の、幼少、家族、懐かしさとなって、
僕自身と結びついているのだ。
仮に、僕は、現在の自宅の近くの空き地に出来た駐車場をみているとしょう。
僕は、その駐車場によって、東京の僕の生まれた場所の駐車場を想起させることがある。
そうした場合、その駐車場という場所には、僕の木造の家が建っている。その家の建っている駐車場は、
僕をみている。そして話しかけてくる僕の歴史を、話してくるのだ。


散文(批評随筆小説等) 人格的な、入道雲、青い空   mixi日記より Copyright 前田ふむふむ 2010-09-17 01:00:03
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