遠い夢—デッサン
前田ふむふむ

             
居間のテーブルに、汗をおびた白い皮膜がひろがり、ひとり
のピンクのビニール手袋は、両手で艶めかしい声をあげた。
一面、ピンとはった空気が、わたしの熱を帯びた息で震える
と、眼をひからせた二匹の青い犬が、暗い踊り場から、わた
しの耳のなかをかけていった。
わたしは、電灯のスィッチをあげて、左足の踵から階段を降
りた。足裏は、硬く、冷たい、(こんなにも、段差があった
のか。)手すりをもつ手先が、ひとりでに震えた。
下は、暗く、真冬にマンホールを覗いている猫のように心細
い。冷たさの先は、空気を捲いていて、ゴーゴーと鳴り響い
ている。心臓の温もりが、口から零れ出すと、眼のまえの青
い装飾ライトが、脈を打ちだし、少しずつ、あがっていく。
やがて、右足が慣れる頃、眩暈が全身をしばると、狭い、一
人しか通れない階段を、暗い大勢の影が、少しずつ、昇って
いる。なぜか懐かしい顔ばかりだ。その最後に、灰色のスー
ツの影が、わたしの横を、すれ違った。鋭い矢のようだが、
息が聞えなかった。あれは、父さんだろうか。
もう、どのくらい階段を降りたのだろう。
段々と、氷の冷たさが、全身を覆っていて、足は感触がなく
なってくる。用心深く、足を、降ろしていくが、いつになっ
ても降りつづけている。わたしは、いったい、どこに行きた
いのだ。度々、何処かで見たことがある、祖父の葬儀のとき
に、祖母が喪服につけた、生涯取らなかった嘔吐のシミ、妹
が、二十歳の夕暮れを、血で刻んだ透明な落書が、荒れた呼
吸に合わせて、これも、昇っていった。でも、一つだけ残る
父母が、いっしょに、暗闇で爪を割りながら削った傷のなか
には、階段の途中にひろがる、居間があり、切れかけた蛍光
灯が、不規則に点灯している。
テーブルの篭には、産声をあげたばかりの一匹の青い子犬が、
壊れそうな声をあげている。
一回、まばたきをすると、わたしは、眼を覚まして、ひとり、
テーブルに座っていた。目の前には、安物の木皿のうえに首
を吊るした林檎が化石になって、積まれている。
階段の踊り場では、わたしの後姿を、少年のわたしが
見ている。
少年は、ひかりに満ちた階下に降りていった。



自由詩 遠い夢—デッサン Copyright 前田ふむふむ 2009-07-08 13:11:14
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