犬の糞概論
salco

語義 ; ありふれた、つまらないものの意。転じて自我の喩え。


英語ではたわごと、下らない事象を喩えて「牛の糞」と言うが、あれは農業国時代に
どっさり在ったものであって、現実的な経験則にしている英米人は僅かだろう。
マサイにとっては建築資材でもあり固形燃料でもある物質を、我々「文明国」の日常
で目にするのは難しい。こと日本に在ってはわざわざ牧場まで見に行くよりも、たわ
ごとはブサイク・ロリータ(主な生息地;原宿、新宿丸井ヤング館など)、下らない
事象はファブリーズ・ママ(同テレビ)、無駄は係長代理(同企業)と換言した方が
手っ取り早い。

犬の排泄物も、問題があるのは飼い主の神経であって、犬の便意や糞自体に罪はない。
それでも目にした余人には若干の不快感を、靴底で触れてしまった者には多大なショ
ックに加え、まるで一日を台無しにされてしまったが如きの被害感情を一時的にでは
あれ惹起する代物ではある。
殊に今を生きる若い人達は昭和四十年代以前の世代と異なり、人をして黄金伝説化せ
しめる肥だめイニシエーション、非水洗式カタルシスのような機会に恵まれない為に、
フンづけ体験を相対化し得ない。いきおい感情の激震にさらされなければならない彼ら
には同情を禁じ得ないのである。無論、地雷と違って実質的な毀損は生じない。しかし
その靴、一体誰が、どうやって洗うのだ……。

転じてこの語は無才で平凡な、価値のない自己を卑下する時にも使う。
このような意識は何も他人に対して洩らす為ではなく、おのれの頭に常駐する自己嫌
悪や自己憐憫に見出す修辞に他ならない。自分は凡俗な両親の肛門からひり出された、
より低劣な排泄物に過ぎないと考えたことのない人間が一人でもいるだろうか。
宿便的自己卑下でもたらされる意義は何一つないにせよ、自己過信の放庇はしばしば
浅ましく傍迷惑でしかない。内省と自惚れを行き来する模索の面積や日当たり、模様
替えの成否が結局、自己価値の居住性であり、ニュートラルな精神と言えるのだろう。

よって犬の糞など目くじらを立てるほどネガティヴな事象ではないのだ。
なべて市販のドッグフードで統一された食生活の残滓には、人間と違って手当たり次
第の悪辣な雑食臭はなく、干乾びればいずれ土に還る。踏まぬよう注意はしつつ無視
すれば事済む問題なのである。
よって、例えば俗物親父に「お前は犬のクソみたいな野郎だな」と言われても、「お
前はどうやら俺の仲間だな」と告白されたのだと受け取るのが正解だろう。
愛してくれる人は沢山いるのだ、殆どの飼い主はそれをティッシュなどで丁寧に包み、
大切に持ち帰ってくれる。私も飼い猫の毎度の粗相を、「アラ! 世界一いいウンチ
ちたのね❤」と讃仰せずにはトイレへ流せないほどだ。

コーギーの嵩高のぐそ脚しのぐ (高尾徒山)
うんこチョコいずれまみれもハムレット (未生逆子)

と、このように運個ウォッチャーは俳人にも数多おり、ワビサビ思索の足がかりに用
いている。
「あたくしの主人は救い難い古物で、女をまるで電柱のように考えておりましたけれ
ど、大の方は宅でしたものですのよ」と、
さる元・総理大臣夫人もインタヴューに答えて語る通りである。


                            2010/01/28


散文(批評随筆小説等) 犬の糞概論 Copyright salco 2010-04-24 23:10:37
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