The Man From 70's
salco

クロアチア大使館の前を片足引きずって歩いている男は右足ではなく
道路を引きずって歩いているのだ。
黒いぼろ靴の腹で昨日は青梅街道を引きずっていたが、
今は明治通りを引きずっている。
現時点で3本の歩道橋と47基の信号機を引き倒しており、
無数の電信柱と交通標識、折り畳まれたガードレールや横断歩道の重量も
さることながら、後方はひどい音だ。
小脇に抱えた小ぶりなずた袋には殺した女房の死体が入っている。
その女房というのがしみったれた面相でも尻の形はいい哀れな女で
時に鼻歌まじり洗濯物を干したりもするのだが、流産を1回、
死産を2回しているのでひどく臭う。

若い頃、男は野良猫のように喧嘩ばかりしていた。
それでふとしたはずみに片目を潰してしまったのだが、医学が発達したら
嵌めようと水道水でよく洗っておいた眼球は結婚式の前日、
たまったツケを馴染みの娼婦の部屋へ払いに行って祝儀袋を出そうとした
際、水引に引っかかっていた為ポケットからこぼれ落ち、床を転がって
ミッキーというシェトランド・シープドッグに食われてしまった。
と言うのも、ミッキー・カーチスに首ったけを経た年増で、
つまるところ素人より良心的だったのである。
それで希望の潰えた左の眼窩にはあの時女が穿いていたピオニー・レッド
のスキャンティー未満の過去しか映らなくなってしまった。
だから左目でものを見ようとする時は、たるんだ黄色い腿と痩せた恥丘の
煤けた毛を必ず最初に見なければならない。
為に自分の少年時代すらもが末枯れた叢の中に隠されてしまったように
思えるのだ。
一打逆転の放物線も、爛れた色素沈着をかき分けなければ見出せない栄光
となった。郷里に誰一人残っていないチームメイトも、ある日ラジオから
聞こえたビートルズも、線路端で接吻したセーラー服の静絵も質屋で抱い
たリッケンバッカーの搏動も、首都に染まった蜜色の肌に嗅いだ王国も
名前も忘れたむっちり白い獲物の長所も、だ。

白無垢の花嫁も、右目には確かに愛らしく映っているのに
左右を結ぶ焦点では顔じゅうに毛を生やし、眉間からおとがいまで深く
裂けているのを、三々九度の間じゅう我慢せねばならなかった。
おまけに不埒な匂いまで立ち昇るのである。
「ちょっとヤマちゃん、ラーメン伸びるから早くイッちゃってえ」
という投げやりな激励も亦。
新機軸はない初夜を迎えた頃には、すっかり恋女房に倦んでしまっていた
のも無理はない。
何せ瞬きせずに凝視していないと、卵形の顔に赤茶けた縮れ毛と暗紫色の
裂創、両サイドに観音開きのアシンメトリー気味なトサカまでがいちいち
生じるのである。
こんな気色悪い異星人は円谷プロダクションの倉庫にもおるまい。暗示的
であるべき顔があられもない地球人は、どの部位で人品を評価されるべき
なのか。
だから男は事務員あがりの女房を右網膜に結ぶ像のままあって欲しいと願
う一方で、早いとこ視覚野に相応しく生活に末枯れた女になってもらうし
かないと考えざるを得なかった。
そして夜は闇を尚も目蓋で塞ぎ、ぬかるんだトンネルを玉砕に向け暫時
行軍する。

しかし杞憂だった。時代は右肩上がり、男は毎晩のように飲んだくれて帰
り、第一子を授かった頃には女房も結婚生活にすっかり幻滅していたのだ。
「最初の懐妊というのは上手く行かない事も多いのですよ」
と医者が慰めた後も、流れてしまった子の不憫に涙する一方で、
あんな父親の下には生まれない方が幸せだ、今は。と女房は思ったのだっ
た。そうして無数の今を褓のように洗っては干し、取り込んでは畳んで抽
斗にしまった。
男はアルコールの催淫作用と朦朧の視覚効果で食傷色の女房を中途半端に
犯し続けていたが、続いて出来た子らも同じ理由で生まれて来ないことに
なった。珠算3級の女房は、ともすればぐらつく決心をこう思うことで
支えたものだった。
あんな父親ではいけないんだ、ミルク代もきっと手前勝手に変えてしま
うんだから
人並みになれない奴を人並みにしてやるなんて、刑務所にだってできな
いんだから。
そうして独身時代の貯金を取り崩しては処置台で高々と脚を開き、
しっかり瞑目する。

「バカだなあお前、そんな目は覆っちまえばいいんだよ」
それでもろくに口も利かない不和を赤ちょうちんで愚痴ると、同僚の
池田が言ってくれた。
「青春なんて今日び屑屋も持って行かねえガラクタよ、穴倉にほかして
置きゃいいのさ」
なるほどね。
野球なんかする年じゃなし、静絵だって今頃は脂っこいかあちゃんなんだ
ろうよ
そこで翌日、薬局で買った眼帯を装着した。
すると片側が天国色の茫漠で模糊っと閉塞され、もう片側で見る女房は
妙に可憐で、にも関わらずすっかり生活に末枯れた女だった。
何だか哀れになって、これからは大事にしてやらないとな、などと
殊勝にもなる。
とつおいつ何日か考え、思い切って酒色の付き合いを犠牲に家路を辿った。
初めは怯えた目で見迎えるだけだった女房だが、浮いた金が全て繰入れに
なるので、ひと月も経つとまんざらでもない様子を見せるようにはなり、
そんなわけで初めて心身の和合を見た結果、またしても着床と相成った。
実際、重いつわりを乗り越えて、
「この子はきついから、きっと男の子だね」などと
スイカ泥棒のような腹を撫でながら女房が寂しく微笑むところまでは
行ったのだ。

ところが男は眼帯に慣れることがまだできなかった。
女房のどす黒い乳暈や毛深くなった腹にはくすぐったい喜ばしさを覚える
のに、左眼窩を封印してしまうと、暗渠と切り離された自分の前後が
薄っぺらい近況だけになる為、どうしても足元の安定感に欠ける。
新しい記憶は右目に貯えられているようで、工場での動作は学習記憶も
あり、その内には左の助けを借りずとも円滑に行なえるようになったもの
の、例えば同僚や知己に行き会っても顔を憶えておらず、
まるで自分が魯鈍であるかのような忸怩の他に、相手に対する猜疑や
憤怒にも似た不安を覚えてしまうのだ。
いまいましい遠近感の喪失は情緒不安定を、情緒不安定はしばしば
頭痛を誘発するので、家でも一人の時は眼帯を外す。
すると過去からの風が一陣脳内を吹き抜けて行く。
最初の酸鼻だけ忍受すれば、あとはおおよそ盛夏の如き確信を与えて
くれるのだ。そして懐かしい。
これこそは安逸のファンタズム以外の一体何であろう。現在の、
まぐわって寝て食って働いて帰ってテレビを観るだけの毎日に比ぶるべく
もなく、遡れば遡るほど爽快で甘美な世界が入れ子式に展開するのであっ
た。そして最後は乳白色の沐浴、記憶以前の知覚世界に至る。ああ天国、
唯一実存的な。
してみれば逸楽とは忘我にあるのではなく、自己認識の牢獄に桃源郷を
幻視する試みであるらしい。

その余情に浸りながら、一方でそれを寂しく眺めやる自分がいるのも事実
で、男は思う。
そうさ、人生の盛りを過ぎてしまったんだから当たり前だ
年貢の納め時って奴よ、これからは人の親として恥ずかしくない生き方を
しないと駄目だ。
と、棺桶に片足突っ込んだ思いで決意表明したものの、
しかし今から考えればまだ青かった。
眼帯を着けていてもそろそろ見飽きた女よりは未知の、また外せば既知の
かわい娘ちゃん達が、入れ替り立ち替り眼前をそよ吹いて通る。
それで頭を振れば振るだけ酒も欲しくなる。そこへ石油ショックが追い打
ちをかけた。
原油3割高により工場は操業を縮小し、軍艦マーチにも似た活況を黙々と
懐旧している内に、とうとう人員削減の網に引っかかってしまった。
デモったところで金の輿に乗ったOPEC連中や雲上のメジャー連中、
血税吸いの政治家連中、
アジったところで着手金漁りの弁護士、事務局に胡坐の労組幹部、
団体交渉でグリーンを夢見る経営陣にプロレタリアートの窮迫なんて
通じはしない。
こうなればヤケにもなろうというもの、
そしてヤケクソは加熱済であろうとクソ以外の何物でもなく、
たちまち男は元の木阿弥、生活はそれどころか灰燼に帰したのだった。

思い切ってあの時家を出るべきだった
あの時は貯金も少しできていた この人に賭けた自分が悪かったのだ
片親の不幸なんて、胸さえ張れば恥と同じで何処にもありはしなかった
のに。
出血多量に尻を染めながら簿記2級の女房は心底悔いた。でももう遅い
夫は茶の間の隅で大の字の高鼾、腹を蹴ったことも覚えていないだろう
いつもの言い合いだったのだ、今日は外で嫌な思いをしたのかも知れな

希望を持ってはいけなかったのだ 我が子を抱けば奮起するだろうなん
て、来てもいない明日に暮らしてはいけなかった
もう臨月に入っている この上は充分に育った赤ん坊が無事に生まれ出
るのを祈るしかない
でも、母親がいなくなるとしたらこの子はどうなるのか
高は知れている。
うれしそうに寝ている男を見やって思った。それなら連れて行った方が
いい
それで廊下の電話台まで這う考えを捨てた。もう痛みは感じない。
ただ寒いのだった。8月なのに変よね、と子に語りかけ、とても寒い
暗くて
ぶるっと、真夜中に尿意で目が覚めた。煌々と明るい。
立ち上がった時、日の丸そっくりな血溜りを尻に敷いて死んでいるの
を見た。腹は大きなまま、いびつな半球になっていた。

それで男は今日も道路を引きずって歩いている。あの日以来、
歩くと路面が右足にくっついて離れない。
だからどんな交通機関にも乗れないし新しい女にも乗れないのだ。
それなら隘路を持ち込むだけで事済む家にじっとしていればいいのだが、
じき家賃滞納で追い出された。
爾来、夜は道端で雨風をしのぎながら眠っている。
別に呪いでもなかろうけどな
一度は東京湾に入っちゃおうかと思ったこともある
しかしよ、湾岸道路がまた長えんだ 高速の橋脚ぶっ倒しちまうだろう
しよ、こんなのくっつけたまんま入水したら船舶の航行に障るだろうと
思ってやめたのよ
どっかで羽田空港でも引っかけた日には大ごとだしな
滑走路がないと飛行機って飛ばねんだろ、
それじゃ内需と外交にも障るじゃないの
まあ自業自得だ、仕様がねえ
ほら、何つった
コータローの詩じゃあるまいけどよ、足跡は残んないけど
こんだけ仰山の道程引きずってりゃ大したもんじゃねえか、なあ? 
眼帯だ? なもんしねえや面倒くせえ
もう鮮烈な思い出なんかこっち側にはないしな
今じゃ右目でも昔のことしきゃ見ねえようにしているんだ
あんま前方にゃこれといった風情もねえし、何しろ重くて歩くので
手一杯さ
そいでかあちゃんの事とかよ
こいつやガキが生きていたらどうだったかな、とか、たまに考える
不思議だよ、てめえが何処でどうくたばるんだろうなんて、これんぼっ
ちも考えねんだから
若い時には考えたもんだけど
まあ、あの頃はぶっ倒れそうなほど突っ走っていたからな
歩くので何しろ手一杯だよ。

               (1970年8月 J.A.シーザー)


散文(批評随筆小説等) The Man From 70's Copyright salco 2010-02-20 12:11:39
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