走り書き。ヒトにとっての色とは何か。
小池房枝

 散文カテゴリーには初めて投稿します。直接には初めまして、どなたにおかれましても。小池と申します。
 カント、メルロポンティ、フッサールほか、何一つ読んだことも読むこともない人間ですが、ふと、あらためて、色のこと。哲学/形而上学?ではないところから、いくつか。
「青」や「赤」について語ろうとするとき、それはもう本当にいろいろなことがかかってくると思うのですが「赤」や「青」という言葉だけでは足りないのではないかと思います。
 「こころ」について話そうとするときに、心が、心を、心に、心は、と言っているだけではだんだん間に合わなくなってくるように。
 「赤」は物理学的にいえば、光学的にいえば光の波長のある部分からある部分まで、ヒトにとっては黄色、朱色のどの辺からか可視光区間のぎりぎりはしっこまでですよね。棹体と錐体にとっての物理的刺激の、ある範囲なわけです。そのひとの認識にとっての。あらためて調べてみるとやっぱり個人によって微妙に違いがあるそうで、稀にひとよりも見える範囲が波長の短いほう長いほうにずれている人がいたり、波長に対しての感受性のピークが違っていたり。
 「赤」という言葉について考えるなら、言語学です。言葉ですから。人類にとっての自然言語が数千あるなかで、色彩についての語彙がもしあるならばまず何と何、という出てくる順番、何ゆえか人類にとってユニバーサル、共通している順番があるらしくて、でもってそれは赤と青ではなくてまず黒と白。色じゃないやんと思われる方もおられましょうがつまりは明るいか暗いか、まずそれが来るんですね。今、何も見ないで書いているので記憶あやしいのですが赤と青はその次だったと思います。赤も、黄色や朱色を含む広い範囲での赤。青も、緑から何から含む広い範囲での青。白、黒、赤、青の次に五つ目があるなら何々、六つ目があるなら何々、と共通してるんだそうです。
 もうひとつ、言語としてみるなら、形容詞か、それとも名詞としての形を持つか、という問題もありましょう。ただ、たくさんあればそのほうが進化した言語かって言うとそういうわけではぜんぜんなくって、どの言語もその自然環境と社会環境においてそれぞれ必要十分な豊かさ、複雑さを持っているっていうことです。ゲール語にはさまざまな「緑」をいい表す言葉が二十ほどもある。そして英語には「お金」を意味する言葉が二百ほども観察されるとのことです。さもありなん。
 客観性を追及するなら、個人やお国柄にとってくいちがうことも多い「色名による表現」ではなく、ええと、明度と彩度と色調、でしたか、それら色の三要素について数字/カタログのナンバー?で言うやり方も、webページのデザインを自分でなさる方や絵の勉強された方にとっては身近なものかもしれません。ここフォーラムでも、RT会議室の壁紙の色とか番号で出てきます。不慣れゆえに詩的に見える不思議な色名も添えられていますが。
 さて、さっきからこの人は/私は、範囲、守備範囲、という言葉を連発していますが、日本が世界に冠たるサル学(変な修辞でごめんなさい)において、パソコンで単語や文を答える訓練を受けたチンパンジーに対し、こんな研究があったそうです。まず色の名前をいくつか教えてから、いろんな色合いのチップを用意して、例えばこれ青?緑?どっち?というような微妙なチップも見せて何色かを答えてもらうわけです。答えられなかったものは×、あるいは複数回して答えが安定しないものはブランクにする。と、こういうものもマインドマップというのかどうか、チンパンジーにとっての色彩についてのマインドマップが得られる。彼らにとってはここからここまでが緑なんだな、青なんだなとわかる。ひとのそれと比べられる。色彩についての認識、認知が進化の中でどのように発展してきたか、その手がかりが得られます。
 話がどんどん飛びますが、視覚ではなく五感つながりで味覚の話で、ヒトにとって甘味が好ましいのはカロリーを保障してくれるものだから。糖分、栄養分の証明だから。酸っぱいのは腐ってるぞー注意、苦味は毒だぞー注意、と本来はそういう意味合いだったろう、ヒトが今、味覚というものを持っているのはそれが生物として生存率を高めるために好ましい性質だったろうと、これもまた本で読んだ意見ですが。
 それではね、色彩は、色に対する感受性は、ヒトにとって、どんな意味があったのでしょうか。生き延びていく上で。アフリカを出て、地球上あまねく種として殖え広がって行く中で。血の赤、火の赤、熟した果実、狩の獲物の肉の色。出産されたばかりの赤子、嬰児。川の青、水の青、海の青、何より空の青。海という言葉をもたない人々はあっても太陽はもとより月という言葉を持たない民族はなかったようです。空もまた、空、という言葉が必ずあったはず。その空の色。
 近親相姦のタブーや神聖視、蛇に対する忌避や崇拝などなど、国や文化や民族を超えて人類に共通の、カタカナでいうとユニバーサルな資質?感覚?のなかに、「赤」とか「青」とか色についての共通項、もまた見出され得るかしれません。集団の無意識、獲得された形質、感覚の遺伝、なのかどうかは今はまだSFかもしれませんが。
 そう、チンパンジーのところで触れたかったのはもうひとつ。蝶には蝶の色覚があり、ひとにはただ白やべたな黄色に見えるだけの花にも蜜への道しるべがくっきりとしるされていること。それを、ひとはもう、実験によって、確かめて行くすべを持っているっていうことです。違う生き物たちにとって色がどんな意味を持つのか、それは計り知れないことではありません。なのではないでしょうか。もう全部わかるってことでもありませんけど。
 同じように、違う人間同士、個々人にとって色がどんな意味を持つのか、何という色がそのひとにとって何なのか、それはえっとこの言葉の意味、まだ本当にはわからないんですけど”アプリオリ”ばかりなことではないと思うのです。脳に電極ぶちこんで実験する代わりに今はMRIもあります。十分大勢の人に連想する事物をあげていってもらって何かを抽出するような研究もきっと行われていることと思います。ああ、色彩心理学って分野がすでにありましたっけ。チンパンジーのパソコン訓練も、パソコン訓練が目的なのではなく、それによってチンパンジーの認識世界を探っていく手段を得るのが目的なわけです。
 ひと自身、宇宙にいくつもの新しい目をあげています。赤外線探索衛星。ガンマ線探索衛星。紫外線、X線、電波望遠鏡。天文学において、あの銀河はとても赤いんだ、というつぶやきは今までとは違った意味を持ちます。とてもとても遠くにあって、もっと遠くへものすごいスピードで吹っ飛んで行ってる最中だっていうこと。かつてはアンタレス。さそりの心臓。赤い顔して今日も呑んでるな。天の星でさえ酔っ払ってるんだ。俺だって飲むぞと歌った中国の詩人にとっての「赤」、のように。
 ヒトにとっての色、というものについて考えるときに、私はついこういう方面に気持ちが走っていってしまいます。乱筆、乱文ごめんください。読んでくださった方お付き合いしてくださって有難うございます。


散文(批評随筆小説等) 走り書き。ヒトにとっての色とは何か。 Copyright 小池房枝 2010-01-31 13:56:38
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