違う存在
北村 守通

「あの家は『違うひと』だから近づいてはいけない。」

と、何度教えられたことだろう。
私の家だけだったのかもしれないし、そうではないのかもしれない。
けれども、父・母、そして親戚の会話の中でも共通して出てきていたので、これはそれほど限定された空間での話ではなかったのだろう。
『違う人』とはなにか?ということについて知ることができるようになったのは、中学に入って『被差別部落』というものの存在を知るようになってからだった。
 そのことを尋ねると、父や母は決まってこう言ったものだ。

「差別はしてはいけないが、区別はしなければならない。」

どうやら、父や母にとっては差別とは直接的な力の行使、という風に受け止めていたらしい。そして区別とは、近づくな、ということであったようだった。
私達の間では、同和政策によって対象となる家には多額の金額援助がなされている、という話が広まっていた。それゆえ、大きな日本建築の家屋が建てられるのだ、と。そうした建造物は皆の憧れではあった。そして、その憧れが自分達のものではないことに納得をするためにその理由となるべき存在が必要だったのかもしれない。
 そういった存在が居てくれさえすれば、世の中は単純だし、ものごとはスムーズに運ぶ。そういった存在が消えてしまえばそれまで円滑に進んでいたことがとたんにギクシャクし始める、といったことがたびたびある。

 例えばある社内で、いつもミスを連発し怒られ続けるスタッフがいた。彼のしでかすミスのお陰で、他のスタッフが起こしてしまうミスは比較的軽く捉えられる。そのぶん、なにか発生するとすべての視線は彼にのみ集中し、彼はそれでも働かなくてはならない。
 彼は最悪だが、まわりのチームワークは最高だ。自然とお互いがお互いを支えあう。
 あるとき、彼が居なくなる。
 最初はそれでも彼に対しての愚痴で笑いあうことができる。
 けれども、時が経ち、もうそのネタが切れてくると徐々にお互いの関係がギクシャクとしてくる。そうすると『新しい彼』を選びなおすと、またうまく関係性が持ち直される。
私は大体4番目だったように記憶している。

敵、という存在は便利だ。
すべての責任はそこに押し付けてしまえばよいし、排除していく快感もある。それをすることで自分はヒーローにもなれる。それは古今東西、人間が取り入れてきた生贄のシステムなんだろう。(魔女裁判、狐つき、その他いろいろあるんだろう)その時、殴る蹴るをしている者達の表情はいったいどういうものなのだろう?と考えてみることがある。きっと血走りつつも幸せで満足そうな表情なんじゃないだろうか?なんせ相手は『敵』であって『違う』のであるから。人の形はしていても人ではない、という理屈を当てはめ、納得させることができるのだから。
 


散文(批評随筆小説等) 違う存在 Copyright 北村 守通 2009-08-21 16:23:19
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