The sense of danger must not disappear :
The way is certainly both short and steep,
However grdual it looks from here ;
Look if you like, but you will have to leap.
WW?後のイギリスにおける無気力と、因襲に緩慢に束縛された閉塞の中でオーデンが試みた跳躍の困難さについては、ここで述べることを省こう。それは今の私の手におえないことでもあるし、ここでは荒地派が「戦後」のイメージを確立するために援用したオーデン・グループやT. S. エリオットの(詩の意味での)行動が、荒地派の活動(もちろん、詩の意味での)の中に響かせていたものについて、端的に指摘するだけでよいと思われる。「have to leap」、跳ばなきゃいけないための、その跳躍の基点たる踵が接するべき足場をどこに<求めるか>。。。その希求のアクションが荒地派の詩的活動のすべてであり、その結果、何が足場として<見出されたか>が、日本という所与の条件のもとで詩を書くというときに、つまり現代という円錐の頂点に立つという醒めた(冷めた?覚めた?)意識のもとで詩作するというときに、是非とも振り返っておきたい地点のひとつだと、私は指摘したい。
上に掲げたオーデンの作品の題名「Leap Before You Look」(跳べ、見る前に)自体、英国の諺「Look before you leap」(跳ぶ前に見よ)を転倒したもので、いかにもイギリスらしいこの諺をもじることで、因襲への批判、揶揄、破壊、再構築への志向といったものが現れていると思う。この諺の本義は辞書によると「実行の前にまず熟慮。転ばぬ先の杖」となっている。「杖を手にするより前に転べ」?諺の諭す内容は違うが「石橋を叩いて渡る」をオーデン式にもじったら、「その石橋、叩き壊して渡りましょう」ぐらいになるのか。それはもはや<橋を渡る>という安全な行為ではなく、それこそ「危険」な跳躍になる。
荒地派がどんな具合に跳躍したかは個々の作品が示している。跳ぶときの足場については多くの詩論や論考が築地した。そしてそのうえで想定された着地点はどこであったか。。。同人誌「荒地」は長く大きな影響を詩に関わる人たちに与えてきた。じっさい、作品もいい。そしてなによりも敗戦という状況を踏まえて日本で詩を書くということについて、深く格闘し、しかも政治的言動や党派的活動に(少なくとも「荒地」解体までは)流されなかった。だがもう<戦後>にカタを付けたいという内的・外的要請の中で、荒地派は歴史化され、名作のように戦後詩を読むということがなされている。それはそれとして一つの現象として見るべきだ。だが、荒地派の活動は本当に、いまのわたしたちにとって用済みのものなのだろうか?そこで掲げられた理念や詩への態度は、もう不必要なものなのだろうか?
荒地派の活動は、例えばウィトゲンシュタインの梯子のように、打ち棄てられるべきものではないのではないだろうか。それはまだ入用な梯子なのではないか、という気がしないでもない。
‘Oh, keep the Dog far hence, that's friend to men,
‘Or with his nails he'll dig it up again !
‘You ! hypocrite lecteur !----mon semblable,----mon frere !’