荒地にて1.5
徐 悠史郎

1.5



「掛け値なし」だかどうか分らないが、私の荒地のイメージをいえば、それは色のない世界で、そして是非とも生命的なものの残骸がそこに現れていなければならないというものだ。<まったくなんにもない>というのでは、かまやつひろしの唄(ギャートルズのエンディング曲)にイメージが近付いていく危険があり、荒地としてはお奨めできない。

最初は「火星かな。。。」とも思った。ヴァイキングやマース・サーベイヤーが電送してきた例の赤茶けた地面。それは地面であって、大地というには少し無理のある<そこ>だった。だが火星表面の、限定しておくべきだが探査機が着地した地点における、あの赤茶けた色彩に、私は地球的な意味での可能性や躍動感のようなものをどうしても感じてしまう。ヴァイキングの電送写真を新聞の一面で見たときの第一感は「あ、やっぱり」であった。まったく、殆ど想像どおりの火星表面が、そこにうつし出されていた。(中程度の宇宙少年であった当時の)私は、もうすでに火星には地球の目線が到達しているかのような感じを抱いてしまった。
私の望みは金星、そして木星の衛星であるガニメデ、カリスト、イオ、エウロパ、または土星のそれであるタイタン、海王星のトリトンといったところに移ってしまった。
そこに私がなにを見たいのかというと、地球の意味での生命と比較すれば、おそらくいびつなのに違いないそれら衛星の固有の生命現象に内包されていると期待される、地球的生命論理を批判しうる太陽系の斜視的な角度なのである。
(ここである種のトランス的な宇宙、または太陽系の倫理を超えた宇宙倫理にまでイメージを拡大することは避けたい。そのような視座を詩に持ち込むことは、痛ましい同語反復をしか生まないであろう。)
タコ型宇宙人。。。ウェルズによって想像された火星の住人のイメージは、実は地球を批判しうる太陽系の視点ではなく、飽くまで地球の論理によって仮構された、地球型生命体であった。彼の想像力は、地球の重力圏を脱しきれなかったのである。11Gオーバーの推進力を可能的に孕む想像力が、荒地をイメージする際にはひとつの鍵となろう。詩人は地球にいてはならない。何年か前のアコムのコマーシャルの彼らのように、<ちょっといま地球に来てる>状態でなければならない。

こうしたかたちでの地球人感覚を日本語によく定着しえているもののひとつに、谷川俊太郎『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』の冒頭に掲げられている数行がある。引用しちゃう。



そして私はいつか
どこかから来て
不意にこの芝生の上に立っていた
なすべきことはすべて
私の細胞が記憶していた
だから私は人間の形をし
幸せについて語りさえしたのだ



私は個人的には、この詩集『夜中に……』とピーナツの翻訳以外は谷川氏のワークスは基本的に嫌いで、彼の詩の大概は偽善の産物と思っているが、私が谷川の仕事に偽善を感じる理由の根が、この数行に端的に現れている。ここには生活者の浅薄な疎外感ではなく、かろうじて地球と社会契約を結ばない限り生存すらおぼつかない<……人>の悲哀が現れている。おそらく彼の命の重みは、他の人が地球一個分なのに対して、二個分だろう。そしてそのような二個分の独我は彼が詩に踏み込むことによって<地球>と<反地球>に対象化され、結果、彼の命の重みはアインシュタイン理論(古いが)によって一条の光芒となり、重量としてはゼロを刻むことになる。
「私」がふいに出現したときのこの「芝生」を、荒地と言ってもいい。

<一匹狼>あるいは<無頼>、あるいは<二丁拳銃>的なガンマンの<荒野>は、アウトサイダーでありながら銃弾の供給や馬の飼い葉を<町>に頼らざるを得ない、皮相的な、いわば<未開に向けて開けた引きこもり>を演出するための舞台装置でしかない。私たち観衆はむしろ、荒野の中に彼の孤独を見ているのではなく、彼の肉体の内部に荒地を見出している筈だ。それが外形的な西部の荒野の表象に溶けて行ってしまい、そのまま取り戻せないとなると、悲しい。そうであってはならない。
いいかえれば、彼ガンマンは<町>の視座からすれば単なる<アウトロー>だが、彼じしん、つまり私たち観衆の感情の移入先の肉体から発する声にしてみれば、それはとんでもない言い掛かりで、ローはローで守ってくれればいい、だがオレはほんとうはそんなものと関わりがないんだ、という意識が、詩人のかすかな絶望と一致するのだ。こうして酒場で飲み干すショットが喩えようもなく喉を癒し、荒地に一瞬の芽生えを生じさせる。そしてガンマンはこの芽生えが芽生えの瞬間と同時に消滅していく様子を、快感として胃の底に感じるのである。

町と町を結ぶ<道>やそれを取り巻く<森>、西部においてそれは<荒野>であった。この秩序と混沌、法と無法、地球と非‐地球の比較検討は、荒地のイメージ確立のための(他愛のない)一助となるかもしれない。




散文(批評随筆小説等) 荒地にて1.5 Copyright 徐 悠史郎 2003-10-04 16:39:48
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