私の詩論 「第2部 ゲノムとポエジー」
ばんざわ くにお

1.生物とゲノムの関係

第1部「はじめに」で述べたように「私の詩論」には「生物とゲノム」との関係が極めて
重要な項目である。それは私の詩論がリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』
(THE SELFISH GENE(1976年出版))の理論のなかの「生物とゲノムとの関係」をもとに
しているからである。
そのためにまず、この理論の紹介を行う。ただ、この紹介はドーキンスの進化論として
重要な「利己的な遺伝子」という概念の紹介ではなく、私の詩論で使用する「生物と
ゲノムとの関係」を皆さんに理解していただくための紹介である。
この本の内容を知りたい方はこの本を実際に読んでいただくか、この本の紹介、説明の
情報を別途、取得してください。
リチャード・ドーキンスの著書『利己的な遺伝子』の説明
  ・著者 イギリスの動物行動学者リチャード・ドーキンス(1941年生まれ)
  ・この理論はそれまでのダーウィンの進化論を遺伝子(ゲノム)の観点から論じた
もの。このような理論は「利己的遺伝子論」といわれ、ドーキンスが1976年に
一般の人々向けに出版した著書『利己的な遺伝子』(THE SELFISH GENE)で広く
知られるようになった。
私が注目した従来の観点との大きな違いは「生物とゲノムとの関係」であり、
その違いは下記のとおりである。
  
?「ダーウィンの進化論」を論じる従来の観点の理論
     生物はゲノムを使用して未来に生き延びる。
?ドーキンスの理論
     ゲノムは生物を使用して未来に生き延びる。

つまり、生物とゲノムの主従関係がまったく逆である。
ドーキンスの理論によれば生物はゲノムの生存機械である。
生物はゲノムの乗り物でゲノムは次々と死んでいく生物を乗り継いで未来に生き延びる。
つまり、進化の本質はゲノムであり、生物ではない。
生物はゲノムの単なる生存機械にすぎない。

この理論はこの詩論第1部で述べているように生命誕生の起源がRNA、DNAから
始まっているのでドーキンスの理論は無理のない自然な感じがする。
この理論にもとづくと人間のほとんどの行動がゲノムを生き延びさせる為の行動として
説明がつく。恋をするのもゲノムの生存のためだし、お金を儲けるのもゲノムの生存の
ためで、親から見て子供がかわいいのもゲノムの生存のためというわけである。

だから、ゲノムは私達の体と心の全てを支配している。
肉体とあらゆる感情(愛情、憎しみ、希望、絶望)、欲望(食欲、性欲、物欲、金銭欲、
名誉欲、探求欲)をゲノムは支配し、私達の体と心はゲノムの生存機械として機能する
目的で作られている。
ゲノムから見ると生物の脳も生物の体を効率良く制御するための1器官にすぎない。
その1器官である脳のどこかに「私」という「自我」は存在し、詩を考えている。
恋愛の詩。失恋の詩。子を思う親の詩、親を思う子の詩、友人を思う詩。生、死、性、
生活の詩、これらは全てゲノムが生き延びることに起因した詩だ。
ではゲノムに支配されていないものはないのか?

2.第3の存在
  
この宇宙では物質は無生物と生物との2つに区分される。無生物の世界は物理法則で
成り立ち、生物の世界はゲノムが支配している。このような状態の期間が地球では
40億年も続いた。この40億年は宇宙の年齢137億年と比べても決して無視
できるような短い期間ではない。
ところが、人類は数百万年前に類人猿の祖先から枝分かれし、今からわずか数千年前に
文明をもったころから自らの存在理由について考察するようになった。
そしてチャールズ・ダーウィンによる進化論を獲得し、ここ数十年の間の分子生物学的
なゲノムの解明は目覚しいものがある。
今や私達人類は少なくとも思想においてはゲノムに支配されていた頃を脱して
この宇宙で第3の存在となったのではないか?
わが天の川銀河の他の恒星の惑星にいる高度文明に達した異星人や遠い他の「無数に
ある銀河系」の恒星の惑星にもこの第3の存在があると思う。
この第3の存在は人間の脳のどこかに存在している「自我」である。

3.生物のため息

人は何故、淋しさやむなしさを感じるのかは私の長い間の疑問であった。きっとそれは
いつかは死んでいかなければならない事と関係があると思っていた。
ドーキンスの著書『利己的な遺伝子』はその疑問に明快なヒントを与えてくれた。
淋しさやむなしさは「自我」を獲得した人間のゲノムへの奉仕に疲れた「生物のため息」
ではないか。私にはそう感じる。
生きることは本来、楽しいはずである。何故なら、そうでなければ生命誕生以来
40億年も生命が生きながらえてこられるはずがない。何もしなくてもただ生きている
だけで幸せを感じるはずである。
そのようにゲノムは生物の体と心を作りだしていると思う。
例えば100年ぐらい前まで南洋の人達は私達から見ると質素な暮らしではあったが、
海や森で必要な分だけ食べ物が取れ、精神的に満ち足りた生活を送っていた。つまり
高度文明の我々より幸福度が高かった。
ところが、ゲノムも完全ではない。より生存率の高みをめざしてブレーキが効かない
場合もある。
高度文明の社会では経済競争に明け暮れ大変な努力をはらって勝者になった者は礼賛
されるが、更なる勝者になるため一層の努力が求められる。又、高学歴社会のため
子供の教育にお金がかかる。そのために更にお金が必要になり、より働かねばならない。
かつての江戸の長屋の大工のように「宵越しの金は持たねぇ」と見栄を張っても
暮らしていけた時代はもうない。
仮に成功して大きな会社のオーナー社長になってもさらに大きな目標を立てて
(たとえば売上高100億円企業、1,000億円企業と)際限がない。
本人も会社をより大きくすることが生きがいになっており、世の中も次から次へと
大きな目標を立ててそれに向って努力することを賞賛する。
すでに成功した時点でこの男の家族を一生生活させるのに十分な資産ができたとしても
この社長の生きがい(会社を大きくすること)は留まることを知らない。
この社長の例は極端な例であるが、生物的に過剰な生存率の確保のための労力の消費を
行った場合、人はむなしさを感じるのではないかと思う。
人はいつか死ぬ。その時にお金はあってもあの世にもっていけない。名誉、名声も
同様だ。生存率を高めることはできても寿命を延ばすことはできない。
もしその人に子供がいたとして、その子供が一人前の大人になって自活していく姿を
見たら親としてうれしく安心するだろうが、自分の役割が終わったのを感じて
なんとなく淋しさや、むなしさも感じるかも知れない。
ゲノムのために奉仕する生物としての役割を人間の脳の「自我」は薄々感じとって
いたのかも知れない。
ゲノムのために死んでいくことは生物的には幸せや快楽を感じるものであるかも
知れないが、「自我」は淋しさやむなしさを感じるようである。
(産卵を終えた鮭が川で死んでいく時や交尾するカマキリの雄が雌に食べられる時には
快楽を感じているのであろうか?)

4.私の「ポエジー」

この詩論の「はじめに」で述べた私の「ポエジー」(私は自分が感じるある詩的感覚を
こう呼ぶことにする)で私は詩の良し悪し(あくまでも私の主観の判断だが)を判定している。
この判定の対象は自分の作品はもちろん、他人の作品の判定にも使用している。
私の「ポエジー」は淋しさやむなしさを求める。このような詩を読むと私の「自我」が
快楽を感じるようだ。
ゲノムへの奉仕に疲れた「自我」が疲れを癒すために同様に疲れた他の「自我」の
「ため息」を聞くことで癒されているようにも思える。
また、私の「ポエジー」は非現実の世界を欲している。非現実の世界もゲノムへの奉仕
に疲れた「自我」の逃げ場所として魅力的であるらしい。しかし、私の「ポエジー」が
好む非現実の世界は見かけ上、現実の世界と区別がつかない。
あくまでもその材料は現実のものから出来ていることを好むようだ。
さらに、私の「ポエジー」は美を欲する。美は権力や経済力と関係がなく、ある意味、
非力である。しかし、非力であるが手の届かない遠くにある永遠の存在である。
どうも私の「ポエジー」は遠くにある手の届かない永遠のものを好むようである。
反対に私の「ポエジー」は論理的な詩を嫌がっているように思える。
たぶん、考えることが嫌なのであろう。だから、私の「ポエジー」にとって
論理的な詩は詩ではない。ただの言葉の羅列である。

5.あとがき

私の「ポエジー」を説明するために長々と文章を書いてしまった。
第1部で宇宙の創成について書いたのはこれがどのような詩より非現実の現実の最高の
詩であるからだ。
大げさに言うと人類が到達した究極の叙事詩である。
この叙事詩の詳細を書くために今年、スイスのジュネーブ郊外の地下に巨大な粒子加速器
LHCが完成した。この円形の加速器の一周は27kmもある。この加速器で陽子を
光速の99.9999991%まで加速させ、この陽子同士を正面衝突させて宇宙の
創成直後の状態を調べようとするものである。今年の物理学のノーベル賞は日本人3名
の方が受賞されたが、いずれも宇宙の創成にまつわる素粒子に関しての研究である。

また、第2部のリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』の理論は詩を書くような
文系の方が多いと思われるこのサイトにはいかがかと思ったが、私の詩論の中核に
位置しているので記述させていただいた。
ただ、私が詩論に適用したのはその中の「生物の生存機械論」である。つまり、
「生物はゲノムの乗り物に過ぎない。進化で中心的役割を果たすのはゲノムそのもので
ある」という考えである。
これは文系の方でも理解していただけ易いのではないかと思った。

この詩論を構想中に下記2つの詩が生まれた。

しらさぎ 
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=169343
生物のため息
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=171079

いずれも「生物の生存機械論」に関しての詩である。興味ある方は一読して頂ければと
思う。
私は昨年の夏から詩作を再開した。再開前に作った最後の詩は30年以上前である。
つまり、奇跡的に30年間死んでいた詩心がよみがえったのである。これはどうも
高速移動体と関係があるらしい。というのもここ最近、毎週仕事で地方に出張するように
なって新幹線に頻繁に乗るようになってから詩心が刺激されているようだ。
現代詩フォーラムに投稿した12詩の内、ほとんどが出張から帰る新幹線の中で生まれた。
高速で移動することが人の脳(少なくても私の脳にとって)に詩作のための
インスピレーションを与えていることは間違いないと思う。


                                    以上

参考文献
リチャード・ドーキンス著 利己的な遺伝子 紀伊国屋書店


散文(批評随筆小説等) 私の詩論 「第2部 ゲノムとポエジー」 Copyright ばんざわ くにお 2008-11-30 14:24:47
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