敵を知り己を知れば…仲仲治さんに恐る恐る話しかけてみる
石川和広

仲仲治さん
自分なりのやり方でお考えになっているようだから疑問があっても茶々を入れないようにしてきたのですがどうも行き詰っているというか、もう書くことがないと書いてらっしゃるので話しかけてみます。直接にはこの散文http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=168678とこの散文http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=168500を考えます

仲仲治さんはそう思っていらっしゃらないかもしれない。けれど、どうもうまく考えられずあれこれの議論に手を広げすぎて逆に焦点がぶれている印象があります。それは私の印象ですから、まちがっているかもしれません。けれども、そう仮定してお話します。

何か問題を考えていて行き詰ったら、どうするか。私もそんなことはしょっちゅうあります。それは、その問題を考えるやり方とか問題設定自体を問い直すということで、仲さんも様々に手を打ってこられた印象がある。けれども、うまくいっていない気がする。

例えば「モラル」もそうですが考えると相当一大事であります。ことはウイキペディアの解説文を引用して解説文に難癖をつけるでは到底済みません。

そういうときに、考えるのを止めるというか今は難しいから止めておこうという場合もある。また、考え続けるにしても経験や学習が足りないからもう少し修行しようということもある。そんなことを考えずに生活するという手もあります。

焦って答えを出そうと力むと余計訳がわからなくなる。見てみれば挙句の果てに人やウィキペディアに難癖をつけるというみっともない仕儀に出てしまっている。
しかし、簡単なことです。別にモラルについて今すぐ答えを出さなければならないという締め切りとかルールはないのですから。あるのならもう少し真剣に考えましょう。そしてそれは生きている限りみんな考え続けたり悩んだり疲れたりすることだと私は思います。(あなたがモラルについて考えていると仮定してですが)今答えをださなくったって恥ずかしいことは何もありません。あるいは答えを出さなければならない切迫した何かがあるのでしょうか。見かけ上は暢気ですが実はそういう内的な事情があるのかもしれない。しかしその問いの中味・内実・論理を―他人のあれこれでなく―あなたにつかまれたものとして提示するかほのめかすかしてほしい。そうしないと他の人も意見の仕様がないから批評もへったくれもない。いくら頑張っても議論が積み上げられない。(これはフォーラムで仲さんのみではなく幾度か見かける光景ですが)最初はあなたももう少しは冷静に見受けられたけれど、今は意地になっているのか話がずれてしまっているように感じる。終盤とかモラルとかその経緯や内的な意味がわからない。

だからひとつには相手しないという考えもある。だけれど、転んでいる人がいたらそしてけがをしたら、一様は駆け寄って様子を聞いたりしますでしょう。私はそれとおなじ程度の小さな親切をやっているつもりです。大きなお世話でしょうか。あなたは「転んでいない、けがをしていない」というでしょうが、私には残念ながらそう見えない。でも出血多量でもない。まあすぐ血はとまるかもしれないし…私はあなたの痛みはとれない。けれど、痛いの痛いの飛んでいけーということはできる。ことは具体的なけがではなく心や言葉です。それは一面では厄介だけど、話しかけてみることは出来る。

ボルカさんとイチイさんのコメントにひとつ共通点がとりだせるかもしれません。それは人を救おうとしても自分に出来ることが限られているという認識だと思います。

誰かが「自殺したい」と散文でいえばとりあえず「どうした?」とか感じたり心配したりもします。けれども、どこの誰かともわからない人にそう簡単に救いの手はさしのべることが難しい。そんなに人は親切ではないということもあります。またそれは自分が巻き込まれたら嫌だというのもありますが、やはり相手に声を届かすのが難しいと感じるからです。それは畢竟相手が馬鹿だからということではなく、自分も時々死にたくなったりしているが、なにがきっかけで凌いでいるかわからないのです。だから立派な答えなんて私はもちませんしもてません。そもそも自殺を考えたことがない人も広い世界ですからいるかもしれません。
また、実際自分の知り合いが死にたいと電話してきて、ビルの屋上に今いますといわれたら、どうでしょう。実際私も経験がなくはないけれど、どれくらい本気かは声でわかるとしても、実際どうしていいかわかりません。いのちの電話などでその対応にあたっておられる方や精神科医で患者・クライエントが自殺した例等多々あるでしょう。医師であれど落ち込むそうです。私はバカだから「死んでくれるなよ」とかそれくらいのことしかいえませんし、取り乱します。それは相手のことを好きだからです。しんで欲しくないからです。わがままです。自分の限界を感じます。好きだけど届かないことがあります。しかし、自殺したいという気持ちはこの世界から消えたいということだろうから、それに匹敵するくらいの思いで対応するか、さもなくば諦めて警察消防専門医の手にゆだねるしかありません。最悪愉快犯の可能性すらある。
ボルカさんやイチイさんの表現を私なりに敷衍していいますとこうなります。まちがっているかもしれません。まちがってたらボルカさん、イチイさん申し訳ない。
非力な私に出来るのは精一杯の気持ちを伝えるくらいのことです。それで適わないならばそれは自分の気持ちが弱かったのかもしれません。しかし実際は相手が大変にややこしい苦悩を抱えているということもあるのです。破滅的に他者もまきこまんとするような自殺もあるのです。心中やテロ、集団自殺。思想や形のちがいはあれど、誰かを巻き添えにしたいのではないか。社会にはたくさんの事件があります。ここ10数年で大量殺人をおこしているケースはかなりそのような自己破滅と他殺が入り混じったものではないか。イチイさんが指摘しておられる例はそうではないかな。

また自分に限界がある。現実に届かないあるいは難しい場合の他にもうひとつあるのは、さして縁もゆかりもないならば言葉がそもそも届かないということがあります。

届かないものにとどかそうとするのは極めて尊いことでこれを突き詰めれば大変大切な問題です。イエスや釈迦が取り組んだ問題だろうと思う。そして無縁の誰かに言葉を届けたいという望みは普遍的なものかもしれない。関係というのは一歩踏み出して作っていくものでもあり逆に不意に向こうから来て巻き込まれていることでもある。だから、非常に語りにくい。また相手への押しつけにしかなっていないことがある。丁寧に語っていきたい。しかし、少し自分の歩く方向がわからなくなれば、知らず知らずの間に変なものにぶつかったり、人の敷地に入り込んでしまっている。もちろん、生きているということは迷子になる可能性があります。たくさんあります。けれど迷子になった責任はあなた自身になくても、他の誰のせいでもないのです。
縁もゆかりもない人と友達や恋人や知人になることは人生の面白さでありこわさです。仲良くなることを共倒れと勘違いしたり共依存になると非常にしんどい。私にも身に覚えがあります。だから距離や礼儀というものがあり、これは安全装置です。恋愛や深い関係に入るときはこの距離を踏み越えますがそれは誰にとっても不安定な状態です。届かないのにいい続ける。相手は押し付けられていると感じる。知らぬ間に相手に例えていうと相手が自分を好きでないのにしつこくつきまとうように見える場合もあります。

話を戻すと私たちは誰かが死ぬと心が痛みます。けれど、実際きわめて関係が薄い他者がいるわけです。また本来他者とは近しい隣人であると同時に、境遇を異にする自分とはまるでちがう人です。その事実を見失いかけてはいませんか。離れていくことは悲しいけれど、しかしそれは自己と他者の本来的な距離なのです。そこに尊厳はあるのです。だから仲良くなりたいのです。離れているから関係を作っていくのです。いきなりべたべたでも冷たすぎてもしんどい。そういう趣味の人もいますが。あなたが昨日の論文で書いた女子高生にしていることはだから、私が叱っても仕方ないのだろうけれど、しっかりしろといいたいのです。
もし自殺しようとする他者に責任が持てるとか介入したいというならば、それはやはり相応の気持ちがなくては誰かを救おうとはできないんじゃないでしょうか。そうでなくてはひどいことになると思います。また、普通わざわざ自分が救ってます!とか宣言しないのではないだろうか。仲仲治さんにはしかしそんな気配はみられない。救うとは宣言しないものの何となく自分が特別だという考えに憑かれて、無理してモラルとか自殺とかいってるのではないかと感じるのです。それは大変無理のある苦しい姿勢ですが、ものを考えるには一方で健康な感覚も必要なはずです。いわばバランスです。

どのような思い・あるいはやり方で自殺したいとする人に話しかけるか再確認してみたい気もする。けれども、これ以上あなたを混乱させるわけにはいきません。それはあなたの心配もありますが、最後のところです。

仲仲治さんがいみじくも最後にいわれていますね。相手に関心をもってもらえないからといって、冗談だとしても「仲仲治に抱かれたい」などといわせようとするのは止めてください。またそれを公言されてもみっともないというかこちらが情けないというか何というか恥ずかしくなります。また余計な一言としては相手から訴えられる危険性もある。衝動の在り処を自覚してください。そんなものわからんけれど私自身も。ネットじゃなかったら叩かれるか猛ダッシュで逃げられますけど。

それにそうやって自分が最低であることをアピールしてどうしたいのでしょうか。そうやって自分が不完全なことをいいたいみたいですが。わざわざそんなことをしなくてもかつてはもう少し丁寧だった論が非常に杜撰になっている。そんな風に露悪を気取っても自分が傷つくだけです。面白がる人はいるかもしれない。けれどどうかご自愛なさってください。わからないことは人に質問しても恥ずかしくないのです。私も含めてこのフォーラムには人に質問したら負けという雰囲気が部分的にだけどある気がするけれど、そんなことはない。世の中では知らないまま意地を張っているほうがよほどみっともないのです。

ふつうにわからない、なやんでいることがあれば、自分の苦悩を打ち明ける。仲さんに今必要なのは他者救済ではなく、仲さんがあなた自身をぬかるみから救うことです。私はあなたを救うまでは思いません。あなた自身が落ち着いて自分を救ってください。できないならば、身近な人の手も借りようではないですか。しかし何が痛く苦しいのかぼんやりとは気づいてください。本人が気づかないままにみっともない状態を放置できない。なぜなら私にもそういう覚えがある。フォーラムでも相当に私は恥かしい振る舞いをしたと思いますから。全部がまちがっているわけではなくても、間違っていることもあった。私は今回自分にしては慎重に考えましたが根がお節介なのかもっと仲さんにも様々な方にも面白い散文や作品を書いてもらったら、このサイトを覗くのが楽しくなると思うのです。そう思っているだけです。正直散文に書く人が限られ、狭くなってしまっているから多様な意見が反映されていないように思うのです。
どうしたらいいかヒントがある気がします。私がこの散文を書き始めた動機を述べます。私もあなたと同様、橋本治や吉本隆明を批評家として大きな存在だと思っています。しかし彼らにも間違いはあっただろうと思います。それは置くとして彼らに共通する方法は自分を問うということです。自分を責めることではありません。仲仲治さんは密かに自らを責めているかもしれないけれど、別にそんなことしなくていいのだと思う。誰も望んでいない。ただ自分がどこで話を逸らしたか、手続きを逸脱したか見つめなおしてください。それは恥ずかしい思いのすることだけど、自分を罰することではありません。自分が今後様々なことを身につけていくのに必要なことです。文学をするとして、文学バカになる必要はない。適応ではなく、ルールやモラルを既存と思うのではなく、ひとつひとつその意味を確かめ他者とすり合わせ、かんがえる作業だけが必要です。それは地味に見えるかもしれませんが、そうすることでしか創造というのは文学においてもないと思います。
吉本には激烈に他者を批判する癖がありますし、橋本には相当根深い他者不信があります。けれど優れているのは自己を問い、自己の間違い・苦しみをなんとか客観化し、人の前に提示することです。それが材料になって、人はそれについてあれこれいえます。つまり感想とかもっと構築されると批評です。私もこういう当たり前のことに気づいたのは最近なのです。
私は仲さんが吉本や橋本の最近のごく限られた作品しか取り上げないのがどうも不満なのです。他にもいいものがたくさんあるのです。たとえば橋本治の『恋愛論』。自分はみっともないけれど、このように恋し世の中を他人を見つめて関わってきたのだと克明に話されています。最近の著作も大事かもしれませんが昭和を総括した『‘89』。その他漫画評論から江戸文化論、歌謡曲、映画に関する評論。どれも昭和や近代ということを検証するため自分の身の回りの事物現象から拾ってきています。
また吉本のある意味の原点は戦中皇国少年だった自分が如何にあおられていたか、自分の眼でしっかりとものを見ていなかったかを考えたところだろうと思っています。『転向論』や『マチウ書試論』では如何に自分を掘り下げ自分の無知や盲目な部分を見つめ、それでもきれいにいきられないでいる。他者を呪う。世界を呪い破滅の方向へ突き進む。その中でも自分の場所をいかにして見失わないかその難しさが語られています。昨今蟹工船がはやっていますけれど、吉本はそれ以降の共産主義がどのように覆いつぶされていったか、それは国家からの弾圧もあるけれど、一方でつづめていうとそこが浅かったからだといいます。
底が浅いというのは自分が生きるということは他ならぬこの社会と関わることだとして、社会の悪い点を見つめる。そこからこの社会と対立する点が出てくる。けれど、対立する社会に自分は生きてきたという視点が欠けていたということです。その社会を否定するだけではことはすまない。自分の中にも社会に染め上げられた・社会と同じだからこそ反応する部分があるのだと。そこを考えないと批評の醍醐味がない。せっかく批評というなら、社会とあるいは世界と切り結ぶ点を模索したいと思いませんか。そのためには、いろいろ人の世話を焼いている時間はないのではありませんか。自分を掘り進めていくともっとちがう景色がみえるかもしれませんよ。単に対立するだけでなく対立する自己とは何者なのかと問う。絶望しているよりももっと絶望したくないですか。吉本批評のたぶん良質の部分は仲さんの言う「じぶん語り」と「他人語り」を並列させてあれこれ論じることとは真逆です。まさに俺は何ものなのかと問い、思い、初めて、ではそれを知るためには実は自分を育て活かしも殺しもする社会や他者を知らなければならないと進むのです。社会や他者もイメージだというのはもっと後のことである時期までは、世の中って嫌だなと思いながらそれでも考えていた吉本がいるのです。この要約は間違っているかもしれませんが、私はそう思います。
己を知り敵をしれば百戦危うからずといいます。敵を知ることは己を問うことと併行したほうがいいし、己を知ろうとしなければ敵を知るきっかけがつかめない。自戒を込めてあなたにこうお伝えしたいと思います。お節介で申し訳ない。

でも納得するまでお好きにやんなさいということもあるけど…実は私が知らないだけでとんでもないテーマをあたためているのかも知れないから。いやそれも確かなことはいえませんが…けど時間はかけてるけど本人は身銭を切っているというがどうもそういう確かさがないんだよな。それは無重力のような。なのに苦しそうだ。



散文(批評随筆小説等) 敵を知り己を知れば…仲仲治さんに恐る恐る話しかけてみる Copyright 石川和広 2008-10-16 10:40:24縦
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