彼らが自由に踊るとき
たりぽん(大理 奔)

鳥取県に多く残っている獅子舞。http://www.east.tottori.tottori.jp/kirinjishi/index.htm
 夜の駅前広場でブレイクダンスの練習をする若者達。私の住む地方都市のいちばん大きな駅での風景です。以前はエントランス外側のガラス面を鏡代わりにしていたのだが、よくわからない理由で排除されてしまいました。JR曰く「通行の妨げになる行為はご遠慮ください」とかいうことで。彼らが踊る時間帯に通行する人などはっきり言って皆無に等しいのですよ。ちょー田舎なんだし。しかも彼らはちゃんとゴミを拾って帰るのです。いい大人の投げタバコの方がよっぽど多いとおもいますよ。なのに、高齢者ばかりのこの街では「いままでと違うこと」は極力排除されてしまうのです。そして若者が減っているという地方新聞の記事と政治家達の街に活力をという公約と、町おこしの補助金がもらえたとはしゃぐ無気力な役人どもがのさばっているのです。それでも、場所を変えながら彼らは踊り続けています。だんだんダンスだって様になってきました。彼らが自由に踊るとき、それは場所なんて関係ないのです。

 この場所はみんなの場所であってあなたの場所ではない、それは排除の言葉でしかありません。若者達は「みんな」のなかに含まれないのでしょうか。私は「みんな」という言葉が大嫌いです。「みんなが大好き」と平然という言葉は結局「誰も好きではない」と同じ事だからです。きっと誰かに好かれる分だけ誰かに嫌われ、誰かを嫌う分だけ誰かを好きなのではないでしょうか。それはとても傷つくし苦しいことです。でも、それが生きていくことの一部だと受け入れなければならないような、そう思うのです。そして嫌いな誰かも誰かを好きなのだろうと思うと可笑しくなるのです。だって可笑しいじゃないですか。「嫌いと好きが同量」になる世界と「みんなが大好き」な世界が同じものに見えるなんて。

 駅前広場の出来事は私にあらゆる相似形を想像させます。たとえば会社や学校、家庭。人が集まるところでは結局同じ事が起こっているのだろうなと。ゴルフのスウィングが悪いとやたらレクチャーしたがるオヤジとか飲みにケーション(死語)に無理解な新入社員とか。そういうのは相手の世界に飛び込んでその中で自分を表現すれば良いじゃないかと思うのですよ。めいっぱい体で受け止めてそれでも「私は違う」と示せばいいのです。「わかってくれ」なんて情けないから言わないで。

 ブレイクダンス練習の真横で麒麟獅子舞*1の練習をする勇気も熱意もないのにそれを排除しようとするのは私は情けないなぁと思います。迷惑かけてないんだからいいじゃないか〜というだけでなぜダメと言われるのか考えないのも同じように。踊りがうまいとか下手とか、踊り方が違うとかと言う前にまず目を伏せようとしないで。古くて伝統のあるものだけが文化ではないし、新しくて革新的なものだけがすばらしいのでもない。その「核」にある(薄かろうが濃かろうが)伝わってくる何かを感じる心を持ちたいなぁと考えるのです。表現方法なんてただの手段にしか過ぎないのだから。

 さて、今日もブレイクダンスを横目にみながら出かけましょう。飲み屋街でオヤジ談義に、今日のネタはこの話で。そんじゃ行ってきます。




*1 鳥取県に多く残っている獅子舞。http://www.east.tottori.tottori.jp/kirinjishi/index.htm



散文(批評随筆小説等) 彼らが自由に踊るとき Copyright たりぽん(大理 奔) 2008-04-30 00:14:26
notebook Home 戻る  過去 未来