この世界を離れて ★
atsuchan69

 むかし僕は天使だった。
 せなかにつくりものの羽をつけ、そでのすこしよごれた白い服を着ていつも母ちゃんのそばにいた。
 かがみにうつった母ちゃんの顔はまるでペンキを塗ったように白く、やけにまじめな眼のしぐさで細くあやしいマユを描きながら、
「うちらが旅するのはなんでやの?」
 そう、きいた。
「わからへん」
 つめたい男爵芋を皮ごとかじりながら僕は言った。
「わからへんか? かんたんやん」
「わからへん」
「さよか。ほな、おしえたろ。オマンマ食うためや」
 それで僕は、
「ひゃくしょうは旅しよらんし、医者もお役人もうちらみたいに旅ばかりしよらへん」
 と言った。
 母ちゃんはマユを描くのをやめて、こんどは紅を口にぬった。
「ええか。うちらは、はみだし者やさかい。ひとつの場所で暮らされへんのや。オマンマ食うためには、ずっと死ぬまで旅まわりせなあかんのやで」
「なんで『はみだし者』にならされてもうたんや?」
「しゃあないやないの。はみだし者は、最初からはみだし者やなんやから」
「父ちゃんのせいか?」
「言わんとき」
「酒呑んであばれるからとちゃう?」
「言わんときいうとるやない」
「なんで母ちゃん、父ちゃんといっしょになったん?」
「しらん。なんでや言われても、なってしもうたもん今さらもとにもどらへんやないの」
「父ちゃんのこと、好きなん?」
「しらん。大切なのは、オマンマ食うて生きてゆくことや」
 そして母ちゃんはかつらをかぶって別の女の人になった。
 舞台にでた母ちゃんは、おひめさまになりきって父ちゃんの弾くバイオリンの伴奏にあわせておどりだす。客席がわいた。でもたぶん、いちばん見入ってるのは、この僕だった。


 おなかがすいた日、母ちゃんは空を見上げて、
「あまい綿菓子みたいな雲がうかんでいるわ」
 と言った。
「父ちゃん、ゆうべまた酒飲みにいって帰らへんやん」
「そうや。帰らへんな」
「はらへって死にそうやわ」
「平気や。一日くらい食わんでも死なへん。母ちゃん、七日も食べんときあったで」
「オマンマ食うために旅まわりしとるのとちゃうの?」
「そうやで」
「食われへんやん!」
「がまんしとき。こんな日もあるんやさかい」
 そのうち母ちゃんは、どこからか粗末な食べ物をもらってきてこう言った、「やっぱ、食べなあかんな。死んでしまうわ」


 そのころはまだテレビもない時代で芝居小屋のない町や村では旅の一座がくると、それは町じゅう村じゅうで大さわぎの人だかりになった。父ちゃんはヨレヨレのいっちょうらの燕尾服を着てじまんのバイオリンを弾きかなでて客をよんだ。その音色は甘くかなしく、くわえて母ちゃんの美しさと芸のふかいおどりが人目をひいた。
 緞帳の下りたあと、村長がぶっちょう面でやってきて母ちゃんにご祝儀をわたした。母ちゃんはいつもとかわらず、まんめんの笑みでおじぎし祝儀を受けとったけど、父ちゃんのバイオリンは、とつぜん熱がこもりいつもとちがうメロディーをはじめた。それはジプシーの曲でこれは僕もまだ一度しか聞いていないすばらしい音楽だった。
 村長は、
「今夜はうちに泊まりなさい」
 と、じっと真顔になって母ちゃんに言った。
 するとその夜は海と山の幸、そして見たこともない料理の数々と果物や菓子の山盛りだった。


 ふかふかの寝床で母ちゃんは僕に言った、
「おまえ、オマンマ食うだけやったら、ずっとここにいてもええんやで」
「いやや」
「なんでやの?」
「ずっとここやったら、つまらん」
「けど、こんなくらし続けても、ちゃんとしたオマンマ食わな、きっといつか死んでしまうで」
「ほな母ちゃんもずっとここで暮らすん?」
「それはありえへんけど‥‥」
「あかんで。母ちゃんと離ればなれになりとうないわ」
「さよか」
 と、母ちゃんは言った。


「あそこの村はな、わたいの生まれそだった所や」
 村をだいぶすぎたころ、母ちゃんがぽつんとそう言った。あてのない道の両がわには、ただ土の畑がひろがっていた。
 父ちゃんはリュックを背おって、もうかなり先を歩いている。両手には革のかばんと黒いバイオリンケースがあった。
「つぎの町まではかなり遠いが、とちゅうの宿場には夜までに着かないといけない」
 思い出したかのようにふりむいてそう言う。「山ごえが夜になるとぶっそうだからな!」
「あいよ」
 母ちゃんは、つよく精いっぱいにこたえた。


 そして休むことなく歩きつづけ、宿についたのは陽のしずむころだった。
「俺は酒場にゆくが、おまえも来るか?」
 なんだかしらないが、父ちゃんは僕にきいた。
「いっておいで。母ちゃんは楽器の番をしとくよ」
 母ちゃんもそういうので僕はしたがった。


 父ちゃんは居酒屋の席について酒を注文すると、
「はらがへってるだろ、なんでも好きなもんをたのめ」
 と、僕に言った。「おやじ、酒をくれ。それとこいつに食いものを」
 居酒屋のおやじは、
「かぼちゃと雉肉のだんご汁はどないだ」
 いくぶん押売りのはいった言い方をした。
「うまいのか?」
「どやろ? けど、まずかったら金はとらんとこか」
「そうかい、そいつはいい。――ぼうず、うまくてもけしてうまいというなよ」
「あかん。いらんこと言うてもうたわ」
 父ちゃんに酒をついだあと、おやじは料理のしたくをはじめた。
 客はすくなかったが、ややはなれた席にいるからだのちいさな男がこちらへ来るなり、
「あんた、芸人さんかい」
 いきなり父にむかって話しかけた。
 父ちゃんは上着のひだりポケットにこぶしをかくして酒をのんでいたが、
「俺に用事か?」
 男に対して向きなおって言った。
「とつぜん、すまんの。わてはこの宿場のまとめ役をしている者(もん)だす」
 男は親しげな笑みをこぼし、「ここはなんやしらん活気のない町でな。人がおらへんよって、博打場かて死にかけたる。つまらん、そないなことを考えながら酒呑んっどったら、とつぜんあんさん方。つまり燕尾服の男と天使のかっこうのボンが眼のまえにあらわれよった。と、見るなり、そや! これや。この人らを当分ここによんで仕事させたろ。ひょっとしたら、ぎょうさん人があつまってこの町もすこしは活気づくのとちゃうやろか。そないなことを、つい今のいましがた思いつきましてな。さっそく声、かけさしてもろうた次第だす」
 父ちゃんは顔つきをおとなしくし、
「親分さんですか。それはけっこうなお話をありがとうございます」
 座ったままだったが、ひだりのこぶしと酒をのむ手をひっこめるとていねいにおじぎをした。
 親分はかぶりをふった。
「いらんわ。かたくるしいのはきらいですわ。それよりも坊ちゃん、ええ顔しとるがな。とてもこの世のものとは思えんな。ところでにいさん。さて、この話どないでしゃろ?」
「せっかくですが。次の興行が決まっておりましてあいにくと、ここは泊めていただくだけの場所となります。なにとぞご理解のほどをお願いいたします」
「さよか。残念やな」
「ご親切にありがとうございます」
「ほな、せめてもの気持ち。酒代くらいはあずかってもらいまひょ」
「これはどうも。かたじけございません。ありがたくちょうだいいたします」
「ほなまた」
 父ちゃんはちいさな男を見送って、
「じゃあ、また呑みなおすとするか」
と言った。
 ちょうど僕の料理がはこばれたとき、
「こらあ」
 店の扉をいせいよくひらいて男がひとり立っていた。「おやじ! 酒呑まさんかい」
 その男は見るからにふてぶてしく、義理も礼節もまるで知らないとみえた。おまけにそいつときたら、父ちゃんの右どなりに座ると、「おまえだれや。見なれん顔しとるやんけ。けったいな格好してくさらしおって」
 と言った。「おい。そこの羽のはえたボン、こっちこんかい」
 男は、気やすく父ちゃんのせなかに腕をまわした。
 おとなしく父ちゃんは酒をのみ、ふたたび器を口にしたとたん相手の顔に酒のしぶきをふきつけてまず眼をころし、つぎにでかい鼻をなぐり、ふっとんだ男をつかまえて首のうしろを押さえ、右ひじで頬を打った。これで相手はたおれたが、まだ眼があかないうちに顔をなんどもふみつけた。とどめ、しばらくは立ち上がることができないよう両の足を椅子をつかって打撲した。
 男はうめき、父ちゃんは手なれた動作で手をはらうとふたたび椅子にすわり酒を呑みはじめる。
「まぁ、ゆっくり食え。そいつはうまいか?」
「まずいけど、のこさんへん。ぜんぶ食うたるで」
「それはよかった。ところで食いながら聞け、けんかは感情によっておこなうものではない。楽譜がよめて楽器を演奏する能力のある人間と、ただあばれるだけの男とでは人間としてどちらが高等か言わなくてもわかるはずだ。低脳な人間をおそれる必要はまったくない。害がなければ利用し、害があるなら退治するまでだ。この場合、手段はえらばなくてもよい。猛獣にたいして人はときとして武器をつかうだろ。それとおなじだ」
「うん。わかった」
 僕はうなずき言った。
 すると急に父ちゃんが椅子からひっくりかえった。
 たおれた椅子の足をつかんだまま男はたちあがり、つぶれた顔で床にころがった父ちゃんをにらんだ。
「ころしたる」
 そして飛びかかり、おおいかぶさると父ちゃんの首をきつく絞めはじめた。
「やめんかい」
 店の入口にふたたび、からだのちいさな男がいた。「喧嘩やったら止(と)めへん。けどこの芸人さんはうちの客人やさかいな。だいいちおまはん、堅気ゆうても始終さわぎおこしてけつかるやないの。おかげでこの町に人おらようになってもうたがな。いままで多少のことはと、このわしも眼つぶってきたで。けど、あかんな。辛抱もここまでや。もうゆるされへん、かくごしときや」
 そのうしろから、おおぜいの子分たちがあらわれて男をとりおさえた。
「‥‥ゆうとねん、さいしょに手だしたのはこいつやんかい」
「ほな、さいしょにおまんが座った場所はどこやねん?」
「しらんわい」
「言わんかいや。席ならなんぼでも空(あ)いたるがな。さいしょからちょっかい出そうおもわなんだら芸人さんとこいかんでも酒は呑めたはずや。おう? ずぼしやろ。わしをなめとったらあかんぞ!」ちいさな男は子分たちに命令した。「――いてもうたれや」
 片目ををつぶり、首をおさえながら父ちゃんはひとりでおきあがった。
「助けていただき、ありがとうございます」
「こっちこそすまんな。いやな思いさせてもうて。かんにんやで。さっき、あのあと。ついそこの通りでこのあほんだら見かけたよって、もしやと思いもどってみたら‥‥案の定やったわ」

 そしてこれは子どもが見るべき光景ではなかったが、
「いっしょに見よう」
 と、父ちゃんは言った。
 手をつながれて見たのは、つめたい夕日のなかで数人が棒切れをもってうしろ手にされた男をぶつさまだった。そのたたきかたははげしく、たちまち服はやぶれ、からだじゅう血がにじみ、そのうち顔や背中のかわがぺろりとめくれた。
 男はうたれるたび、
「ぎぇひぇーぎゅあがぁ」
 まるで人とはおもえない声で鳴いた。――いや、それはまちがいなく獣そのもののさけびだった。


 やがて春がきてみわたすかぎりのレンゲ畑をたくさんの蝶たちがて舞いとんでいた。父ちゃんがハーモニカをふき、母ちゃんは上機嫌で父ちゃんのつくった芝居の歌をうたっている。それは旅の吟遊詩人がお城からお姫さまをつれだす歌で、じっさい母ちゃんも父ちゃんにつれだされたのは本当だ。ところどころ継ぎは当たっていても、白いドレス服の母ちゃんはまだお姫さまのつもりだった。
 そして母ちゃんは夢見るようにうたった。

 見てごらん こわくなんかないよ
 かんたんさ 一歩だけこっちへすすんでみて
 君は君以外のものを棄てればいい
 お金もいらないし 失うものも何もない
 永遠にかわらぬ愛とひきかえに
 ぜんぶ棄ててしまって笑いころげよう
 きっと失う哀しみもないままに暮らせるよ 

 神さま ぼくが君といられますように  
 どうか 君が君でいられますように
 ここにあるのは ただそれだけ
 行き先は自由 君とぼくとの何もない世界

 見てごらん はじまりの時を
 ふるえる大地の 鼓動をかんじるだろ
 君に君以外のすべてをあげよう
 この星をまるごと ぜんぶ君にあげるよ
 地獄までつらぬく愛で君をみたそう
 暁にかがやく天使よりもつよく、
 夜空の星のすべてが落ちるほどの愛で

 神さま ぼくが君といられますように  
 どうか 君が君でいられますように
 ここにあるのは ただそれだけ
 行き先は自由 君とぼくとのはじまりの世界

 どこからか地響きのような音がちかずいてくる。
 僕はレンゲ草の首かざりをこしらえて大好きな母ちゃんにあげた。母ちゃんは笑みをこぼし、すると声にしないで「あっ」という顔をした。そしてぼくの肩をたたいてうしろを見るようにうながす。
 ふりむくと鉄橋を蒸気機関車がまっ白いけむりをもくもくとはいて走りわたるところだった。
 せなかにある羽をおおきくゆらし、ぼくはよろこんで機関車へむかって駆けだした。


 それから、とある町ではおおぜいの役者をひきつれた旅芸人の一座と合流した。
 皆で食事をし、
「ぜひうちに来てもらいたいと思っているんだがね」
 ぶどう酒をのみ、座長が父ちゃんに言った。
「おこころづかい、ありがとうございます」
「わしらは家族みたいなもんさ。困ったときはいつも助けあい、協力する。病気になっても放っておかないし、めんどうもみる。だいいち旅まわりはしてもじつはちゃんと住むところがあるのだ。そこは海べの村だが、一年じゅうあたたかで食べものもうまい」
「さかなつりもできるわ」
 まだまだ子どもらしさのぬけていない、にきび顔の娘がそう言った。
「座長はん、どないですか? そりゃあ旅の生活はきびしいでっしゃろ」
 母ちゃんはもうさっそくこの先を見すえた話し方をした。
「たしかに。しかし、しょせん大衆演劇とさげすまれる一座ではあっても、巡業先でどよめく観客からアンコールをさけばれるときほどうれしいと思うことはない」
「へぇ。うちらはな、ちぃと、ちゃいまんねん。お客はんによろこばれようが蔑まれようがいつも同じですわ。オマンマ食べていけたらそれでよろしいのとちゃいますか。まあ、そない思ってやってますよってに。けど、うちの人は芸に対してえらくうるさい方でっしゃろな。どないなときでも一生懸命やります」
 かぶら大根と鰯の酢漬けをいったん口にしかけ、座長のおくさんが言った、
「つまり芸術家というわけね」
「どやろ。ドサまわりの芸術家ちゅうのは聞いたことあらしませんけど」
 母ちゃんはそう言って大笑いをした。
「いや、わしもじつはうすうす感じているよ。その閃光のようにほとばしる類なき才能と狂気とを」
「もしや‥‥」
 と、こんどは素顔の道化役が口をはさんだ。「あなたのバイオリン、音のひびきがちがいますよね」
 父ちゃんはすこし心配そうな顔をした。
「まあ安物にしてはいい音だが」
「あなたは昔、高名な音楽家のお弟子さんだったのでは?」
「どうしてそう思う?」
「ふんいきとか‥‥なんとなくですけど」
「あははは。わたしの師はわたしさ」
「そうなんですか」
「この人はな、わたいの通うとった女学校で音楽の教師してましてん。どない思います? みなさん、びっくりでっしゃろ。教師も教師なら生徒も生徒や。つきおうて間もなくさっそく駆け落ちですわ。そこからはもう、必死やったし。あまり覚えてまへん。昔のことやないの、忘れてしもうたわ。そうゆうて笑うこともできます。でも、やっぱ忘れられへん辛い思い出もぎょうさんありますわ。なんせ今夜の寝床もわからへんような毎日やさかいな」
 そう言って母ちゃんは、父ちゃんの顔を見た。
 父ちゃんは、
「しかしまだ生きている」
 と、言った。「君も私も、たぶんあとしばらく生きるだろう」
「あとしばらくでっか」
 母ちゃんはすこし首をかしげて笑った。
 僕の目のまえには、くしで焼いた殻つきの海老がある。
「とんでもない。あとしばらくなんて言わず、あなたもせめてお孫さんを見るまでは生きてなくては」
 座長はそう言って、またぶどう酒を飲んだ。

 
 あれは冬の夜、森のなかの一軒家に住むバイオリン作りのおじさんが炎のゆらめく暖炉のまえでこう言った、
「誰にも言うんじゃないぞ、秘密はコオロギの翅じゃ。一年ほど乾燥させたやつをすりつぶしてニスにまぜるんじゃが、これがまたむつかしい‥‥」
 僕は熱いミルクをいれた木の器をくちびるにそっとあてて、
「コオロギの話なんかどうでもいいよ。それより父ちゃんのバイオリンの修理はいつまでかかるの?」
 すこしばかり怒ったようにそう訊いた。
「まだかなりかかるかな。ちゃんとかわりのバイオリンを貸してあるから、そんなにあわてんでもいいじゃろ」
「僕はバイオリンがなおるまでここに居なくちゃならないんだ」
「なるほど。そう、たぶん遅くても春にはまた旅に出られると思うがね」
「春まで? 少し長すぎない?」
「いいや。あとでわかる時がくる、冬が長すぎるなんてことはない。あっという間さ」


 冬の終わり。ふたたび町から町へと白い服を着た僕が先頭に立って通りを歩く。
 次の町では、高い塔のある広場で人をあつめた。
 どんよりとした空の下、父ちゃんのバイオリンの伴奏にあわせて母ちゃんがうたった。人だかりの円陣のなか、僕は天使のかっこうでずっと父ちゃんの真横に立っている。

 さあさあ おたちあいの方々
 わたしはお姫さま お城のかごの鳥

 ある日 旅の詩人がお城へ来ました
 彼は雪解けの大地のようにあたらしい顔をして
 また春を告げるようなすがすがしい声で言いました、

 ――お姫さま 
 わたしはあなたの瞳にうつる世界を見ました
 なんとそこは美しいのでしょう
 どうかわたしもそこへお連れ下さい

 お姫さまは言いました、
 ――はい。あなたもそれを見たのですか
 でもわたしはそこへゆく道を知りません
 なにしろこの城から
 わたしは一歩も外へでたことがないのですから

 すると詩人は言いました、
 ――わたしが来た道をしばらくゆくと
 また道がつづいています
 そしてその道のむこうにはまた道がつづいています
 きっとその先に、そこへつづく道があるはずです

 ――では行きましょう
 それもたった今すぐに 

 ふたりはたちまちお城を去りました
 着のみきのまま 鞄さえ持たずに
 そして目指すのは お姫さまの瞳のなか

 ああ 美しいお姫さまの瞳
 そこに映っていたのは ただ旅の詩人だけでした

 そこで父ちゃんの弾くバイオリンの音がはげしくなった。そしてからだを僕の方に大きくかむけて、
「俺の帽子をとれ」
 と言った。
 僕は言うとおりにし、そのあと父ちゃんの帽子を手に円陣にできた人だかりをまわった。そのあいだに母ちゃんがまたべつの歌をうたう、

 世界はだれのものでもなくて
 あたりまえのように いつもここにあるけれど
 影をのこす まぶしい日差しのあたる真昼の今でなく
 真実はひとつぶの星の瞬き、
 夜空のちいさな耀きのなかにある
 それは遠い夢 叶わぬ思い  
 でも本当はもっと近くにあるわ
 眼をとじると、きっと見えるはず もうひとつの世界が‥‥

 誰かが帽子のなかに丸い小麦菓子をいれた。またジャリ銭のほかに紙幣をいれる者もいた。りんごをいれる者もいた。そして帽子はたちまち重くなり、ついには子どもの僕に持ちきれないほどになった。

 そして僕は今、母の生まれた村で国語の教師をしている。
 
 父も母もあまりながくは生きなかった。
 でも思い出の中では、ふたりはとても幸せそうに笑っている。
 だからうれしくて‥‥あの天使だったころの日々を思うと、透明な涙が、なぜかポロポロとこぼれ落ちてとまらないのだ。

 もうじきだ。僕もやがて父と母の住む場所へゆくだろう。今ここに見えている――美しくもあえかなる――この世界を離れて。


散文(批評随筆小説等) この世界を離れて ★ Copyright atsuchan69 2007-12-27 02:32:23
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