帰路の雲
蘆琴

 煙草を棄てて歩き出すと、喫茶店の緑色のテントの先には雲一つ無かつた。
日曜の人込みを疎みつつ小走りで駆ける彼の耳元に何かの聲が囁いたかと思うと、俄かに彼は車道に飛び出した。黒い車がずずつとゝまった。中の女は目と口を呆然と開いてゐる。決まり惡く會釋して彼方に渡ると、歩道をふらついてゐた老人共が足を止めて此方を凝視してゐる。
白髪のそれらは杖をつき、腰を折り重ねて死んだ魚のやうな目で見つめながら何も語らない。
無言の内に見遣ると直ぐに視線を逸らして各々の道に流れて行った。
「くたばり損なひめ」
ふと思ひ立つて歩みつつ曲を探す。

 少し行つてふと仰げば曇りがちに、驚いて視線を戻すと、七三分けに眼鏡をしたスーツの男が此方を睨み附けてゐる。
「何か」と訊けば、
首から紐に下げた木の板を兩手で顏の前に持ち上げて見せた。
「犠牲者たる大衆」
下には、
「労働、ドラッグ、テレビ、女、一神教」とあり。
目は紅潮し齒をぎりぎりと音立て、髮を逆立て握りこぶしを靜かに震はせたり。
「氣違ひか」
さう呟いて横目で見遣りつつも過ぎようとしたが、視界から消え去る間際、かたちの崩れるを斜め後ろに見た。おのづから振り返ると膝を地面に附いて、空に微笑みかけながら涎を垂らして涙をぽろぽろと流してゐる。そして周圍の視線の中で股間を地面に擦り附けだした。微かに吐息を漏らして男の表情は柔らかく崩れ、目を瞑り己の精神と交はふ快感に身を委ねる奇異な光景を怖れて、みな避けて近寄らない。一人傍だちてビルの群れとともに眺むるに、何ぞ思ひにけむや、天上に咲く果実を唯一人だけ与えられて其れを食ふ様を見せびらかすが如く自信に満ち、陶酔のうちに卑下を含んで此方を見つめてゐるではないか。ああこれこそと思ひ、どうにかして率て帰らうとて、「附いて來い」と言へば、鼻息荒く默つて何度もうなづくと俄かに悲しみの顏浮かべて太陽を探し、今生の別れ告げてぞゆきてける。新しい主を知つた悦びに哀れな犬は、屡々止まつて尻尾を振り、彼の周りをぐるぐる囘つた。細い道に臥したる猫を捕まへ、與へると喜んで道を通はした。
暫くして飽きたので、「終はりだ」と言ふに、まづ驚きて、さらに榮譽に満ちた仕事を負ふやうな笑みをし、しばしの沈默のゝち覆ひつゝかの首を絞めて、泉沸く恍惚のときを迎へたるのち、自ら舌を噛み切つた。


「生まれ来てまづ親に従ふ。かしづかれ守られるも、暫しありて、進むべき道を敷かれたると知る。
次に金の合理性に従ふ。親が寄越す好きに浪費するも、暫しありて、得がたくなりぬ。
テレビに従ふ。ただ目に入る情報を穏やかに受け入れ続け、暫しありて、生活水準たる常識に気づいた。
会社に従ふ。与えられた仕事をこなし続け、暫しありて、悩みが生じた。
煙草と酒に従ふ。厭ましいことは忘れえた、暫しありてやめがたくなりぬ。
職場の女に従ふ。女の為にドラッグを断ち恋に生きるも暫しありて、女は西洋の一神教を勧めた。
宗教に従ふ。唯一神との交合に酔いしれるも暫しありて、その脆弱さを知る。
司命に従ふ。命を棄つるこそが絶対的な快楽と遂に気づく」


未詩・独白 帰路の雲 Copyright 蘆琴 2007-10-17 16:35:44
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