猫とたんぽぽ再び&感動に関するまとまらない考察
佐々宝砂

先月私は「猫とたんぽぽ」と題した短い散文をここに投稿した。25ポイント入ったら消すとコメントに書いておいたところ25ポイントかっきり入ってしまったので削除した。私本人は、「猫とたんぽぽ」という私の散文を高く評価しない。書かれたことは事実ではあるが、私はウケをねらって書いたのだ。ウケをねらって書いたのだが、ウケるとなんだか気持ちが悪いのだ。削除された文書についてとやかく述べるのはよくないかもしれない。とりあえず全文を引用する。


「猫とたんぽぽ」

私はめったに泣かないのだけれど、うちのチビ猫が玄関先でたんぽぽと並んでいるのを見たとき、ただそれだけで泣いたことがある。わーんと泣くのではなくて、じわっと涙がでた。

そのころうちのチビ猫は、「うちの」チビ猫になりかけたばかりで、ほぼ野良猫だった。呼ぶとやってくるけれどかなり警戒していた(今は膝に乗るようになったし一緒に寝る)。たぶん春のことだったと思うけど、家の前の道路にチビ猫がいるのが見えたので、おいで、と言ったら、玄関先まできた。

立ち止まって、おすわりして、こっちを見上げる猫の隣にたんぽぽがあった。常日頃のチビ猫はあまりかわいげがないのだけれど、そうしてたんぽぽと並んでいるとかわいかった。こいつはたんぽぽが可愛いだなんて思わんだろーなと思った。そして自分が可愛いと思われてることも知らんだろーなと思った。そうしたら泣けてきた。なぜと問われてもわからない。

猫とたんぽぽが並んでいるとそのときのことを思い出す。うちの庭にはたんぽぽがたくさん生えている。チビ猫はうちの庭であそぶ。それを見ていても、あのときのようには泣けてこない。だからなんだと言われると困るのだけれど、なんだか書いておきたかったのだ。私のつまらない日常のなかで、ごくたまに私の心を動かしたことのひとつだから。

[作者コメント欄]
CM制作者が煮詰まったとき出すのが「動物と子ども」だそうです。動物や子どもは感動を誘いやすいからです。猫でひとつ投稿してしまうとは私も煮詰まったのでしょうが、この投稿の要は「それが平凡な風景である」ということに尽きます。

ただいまの第一の疑問は「なぜこの手の話は受けるのか」ということです。また、もし感動が訓練ならば、なぜ同じたぐいの話に食傷するという現象があるのか。日常のなんでもない風景に対する感動と、おおげさでダイナミックな映画なんかに対する感動と、何がどう違うのか。

あるいはものすごく小さなイキモノ(田んぼの水に住む顕微鏡サイズのエビとか)が、生きて動いてものを食って生殖しているという単純にして複雑な科学的事実に、ふと感動する、この感動とあの感動とその感動は、いったい何が違うのか。

とにかくなんか違うとは思うのですが、うまく言えません。まだ考えがまとまっていないのだろうと思います。


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そもそも感動ってなんやねんと辞書を引く(これもある意味安易だが、何かについてとことん考えるための初動)。

かん‐どう【感動】
[名]スル ある物事に深い感銘を受けて強く心を動かされること。「深い―を覚える」「名曲に―する」 (大辞泉)

(名) スル 美しいものやすばらしいことに接して強い印象を受け、心を奪われること。 ・ 深い―を覚える ・ 名画に―する ・ ―的な場面 (大辞林)

とこのふたつの定義からして解釈がすでに違っている。大辞泉の方が正しいよーな気がする。感動を誘うものは、必ずしも美しかったりすばらしかったりするとは限らないからだ。人は場合によっちゃウンコにすら感動するはずだ。そんなことないって? いや、ありうる。たとえば生まれつき肛門閉鎖の赤ちゃんがいたとしましょーね。当然手術せにゃなりません。そいで、手術の傷が癒えて、はじめてウンコが出て、そりゃ感動でしょ? より精密に言うと、ウンコ自体に感動するのではなくて、「ウンコが出る」という事実に感動するわけなのだけど、ウンコの実物をさておいて冷静に科学的に考えてみると、「ウンコが出る」というのは、すばらしいか美しいかわかんないけど「人間が生きる上で絶対に必要なこと」ではある。その絶対に必要な「ウンコが出る」ことを人は日頃深く考えなかったり忌避したりしている。で、ウンコが出ない肛門閉鎖の赤ちゃんという存在に触れて、改めて、ウンコが出るということのすごさや必要性を知る。

つーことでこれは仮に出しておく答なのだけれど、感動というのは、「普段は考えていないことを深く考えてみることの快楽」ではないかいな、と思うのでした。あーまだ書いてなかったけど、感動は快楽です。ここんとこは絶対認めてください。

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あースポーツに感動するとか、絶景に感動するとかゆーのもあったなあ。あれは「深く考える快楽」ではない。ではあの感動をどう説明したらいいのか。

感動するほどのスポーツとゆーのは、たいてい一種の奇跡のようなものなので、その瞬間に巡り会うとそのことだけでもほんとはすごい。でも実際にスポーツ見て感動するとき、そんなことまでは考えない。目の前で起きている奇跡にびっくり感動するだけである。しかし、スポーツによりわき上がる感動つーものは、いくらかの知識を必要とする。球技のたぐいならルールを知っていなければならない。ルールがわからなければ、あるいは、たとえばホームランを打つことの困難を知らなければ、感動はできない。単純に思える高飛びや100m走だって、「人はふつうそんなに高く飛べない」「人は普通そんなに速く走れない」ということを知らなきゃ感動できない。あー。でも、もしかしたら、そんなこと知らないでも感動するかもなあ、全盛時代のブブカの棒高跳びやカール・ルイスの三段跳びは芸術だったもんなあ、あれは美しい。なんで美しいと思うんだろう。

もちろん、スポーツに適当な物語をつけてさらに感動を誘いやすくすることが可能だ。選手の親や親友が死んだとか。結婚して子どもが生まれたばかりだとか。選手自身が病気やケガから復帰して初の一勝、だとか。でもその手の感動話をよーく考えてみると、スポーツの感動に味付けをしているに過ぎないと気づくはずだ。

味付けを除外して考えてもスポーツは感動を呼ぶ。なぜか。すごいから。奇跡だから。美しいから。じゃあさあ、すごいとか美しいとか奇跡とかってなによ?(絶景に感動するのはなぜか考察してる間もなく次の疑問が・・・)

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このまま続けると話が明後日の方向に行きかねないので、ちょっと戻して猫の話。

Youtubeの猫動画というものは猫好きにはほとんど生活破壊兵器であって、見始めると止まらない。最近いちばん好きなのは「眠くて仕方ない仔猫」http://www.youtube.com/watch?v=iO-12GXgeS0なのだが、これは単に笑えるから好きなのであって感動はしてない。私以外の人も別に感動はしてないっぽい。

しかるに「*deformed kitten 保護した奇形の子猫 The kitten which I protected.」http://www.youtube.com/watch?v=wI8btrvu1kQになると中には感動してる人がいるよーだ。だけど、どうも安直な気がする、とゆーのは、感想の中に「かわいそう.....」つーのがあったからだ。この猫、奇形だとしても保護されて飼われてるんだからぜんぜん可哀相じゃないでしょーにw 可哀相な猫つーのは、虐待されてる猫や、雨の日にひもじくて死にそうになってる野良猫や、車に轢かれて死にかけたり死んだりしてる猫のことをゆーのだ。この猫は幸せなのだ。

と思ってダンナにもこの動画を見せてみた。私と同じ感想であった。この猫は全然可哀相ではない、幸せだ、と言った。Shonkoクンは奇形ではあるが、たぶんかなり猫生を楽しめる。愛されてうまいもん食ってぬくぬく寝てころころ遊べる。安易に連想することは避けたいが、人間だって、奇形であるというそのこと自体は可哀相なことではないだろう。人間は猫じゃないので「愛されてうまいもん食ってぬくぬく寝てころころ遊ぶ」だけでは足りないけれども。

一見すると可哀相な気がするものに触れると、人によっちゃ感動するらしい。私はその手のものに感動しないのでよくわからない。

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話が明後日どころか再来月の方向に行ったような気がするぞ。

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もし、明日が来ないとしたら。

いや私はそんなことあり得ないと思ってる。私が死んでも、この世はとりあえず存続して、きちんと明日がくるはずだ。などと書いているのはたったいまルナスケープで「最後だとわかっていたなら」という詩の本の広告が配信されたからである。「最後だとわかっていたなら」の原文と訳文はhttp://www.futaba.ne.jp/~a-sagawa/hug/words_if.htmlで読めるので本など買わなくてよろしい

もし最後だとわかっていたら、私は「最後」が来ないように努力するだろう。相手が延命治療を望まないとしたら、相手の生きた証をなんとか残そうとするだろう、ビデオなんかではなく、私というフィルタを通した情報として残そうとするだろう。もちろん虚しい努力だが、こういう虚しい努力こそが人間の人間たる所以だと私は思う、キスや優しい言葉に人間の人間たる所以があるとは私にはどうしても思われない。

うちのおばあちゃん猫が明日死ぬとしたら話は別だ。このおばあちゃん猫はあくまでも動物であり、あくまでもペットだ。私が私の感情を制御する手助けとするために、あるいは私のエゴを満足させるために飼っている。死なれたら悲しいが、無理矢理に生存を存続させるのも気の毒だから延命治療はしない。このばあちゃん猫は子どもを生まなかった。生きた証を残させなかった(個体としてのおばあちゃん猫を生き延びさせるために去勢した)のは、私のエゴの結果である。人のエゴに振り回されるおばあちゃん猫は、特に悲しみもせずのほほんと窓辺に寝ている。こいつは動物なのでそれでよい。こいつが明日死ぬとわかっていたら、写真とビデオをいっぱい撮って、大好物のサバを食いたいだけ食わせて、牛乳も飲みたいだけ飲ませよう。それでOKだと思う。もともと奇形の野良猫であるところのおばあちゃん猫のDNAはユニークだが大きな価値を持たない。この猫に私が価値を見出すのは、私がこの猫に感情移入することを、自分の感情を整理するための有効な手段としているからである。私はこの猫だけに私の感情の整理を負わせてはならない。それは私個人にとってリスクが大きい。ペットはたいてい人間より早く死ぬ。

だが私のまわりの人間の誰かが死ぬとしたら、死ぬとわかっていたら、私は、どうすべきかほとんどわからない。とりあえずさっき書いたように、私は死を避けるように努力するだろう。相手の生きた証をとっておこうと努力するだろう、だが相手は猫じゃない。人間だ。ビデオに撮って優しく微笑んでキスしてOKかというと絶対そんなことはないと思うのだ。とある一個の人間が生きた証とはいったいなんなのか、何をさすのか、あなたにわかるか? DNAだけではない。むろんビデオだけでは人間の生きた証にならない。

私はいま考えている。いま現在「考える」内容は私をわずかだが変化させるだろう。そんな予感というか快感がある。


散文(批評随筆小説等) 猫とたんぽぽ再び&感動に関するまとまらない考察 Copyright 佐々宝砂 2007-08-07 17:54:59
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