【小説】月の埋火
mizu K

 どどどう、どどどう。
 耳鳴りで目覚めたように思ったがそれは絶え間なく聞こえ
る潮鳴りであった。
 どどどう、どどどう。
 遠くか近くかわからないが、その音は聞こえる。遠くの方
で誰かが呼んでいるように聞こえるときもあれば、耳のなか
で鳴り響いているように思えるときもある。
 そうだ、耳鳴りのように思えたのだった。
 目を開けているが天井は見えない。それほど深い闇はもう
久しく見ていなかった。床についてからしばらくちりちりい
っていた囲炉裏も今は静かになった。寝息はどうだろうか。
聞こえない。それよりも潮鳴りのほうが近いのだ。沖合いに
少しずつ引き込まれる感覚がくる。呼んでいるのか。
 どどどう、どどどう。
 耳をすます。囲炉裏のむこうで横になっているはずの祖母
の気配はわからない。ぐっすり眠っているのだろうか。眠り
は深いのだろうか、浅いのだろうか。もう何年、祖母はこの
潮鳴りをひとりで聞いてきたのか。


 夜、囲炉裏端で月の話をした。
 こちらにきてからずっと、夕刻に浜におりていくので、尋
ねられたことがあった。
 月が出るところをみたいのです。
 そう言うと、祖母はこころなし笑ったようだった。
 食事時と重なるのでここのところ月を見にいっていない。
大潮も過ぎて数日もしたころ、夕餉の後に、茶をすすりなが
ら月の話をした。
 十五夜の満月さんを過ぎると、月の出が少しずつ遅くなる
でしょう、それぞれ呼び名がありましてね。ああ、聞いたこ
とがあります、たしか立ち待ち月とか。そうそう、それは十
七の月のことです。十六日がいざよい、十七日が立ち待ち。
では、十八日は。居待ち月、座って待つくらいのうちに月が
あがります。その次は寝待ち月。寝て待つのですか。そうで
すね。草っぱらに寝転がって待つのかしら。縁側でお酒を飲
みながら、ということもあるでしょうね。なるほど、縁側で
寝酒。煙草もぷかぷか。おだんごも食べたりして。くすくす。
 そうそう月といえば、と祖母はくすりと笑った。ときどき
こんな笑い方をする祖母に、私はときどき彼女の歳がわから
なくなる。小さな女の子のような笑い方。おばあちゃんなの
に。
 月といえば、なんですか。
 月を生け捕ったことがありまして。
 あのう、いけどったって、その、いきてとったのですか。
はい。それは、そのう、李白みたいにですか。いえいえ、正
確には月の影なのですが。かげ。はい、影、つまり光です。


 祖母が、今の私よりももう少し歳をとったころの話だそう
だ。夜、流しで洗い物をしていると、ふと目の前が明るくな
ったように思ったので、つと顔をあげると、格子窓のむこう
に遅い月が浮かんでいた。何とはなしに台所の灯りを消して
みると、皓々と月の光が射し込んでくる。その光のなかでま
た洗い物の続きをしていると、お椀を取り落としてしまった。
 流しの水を止めると、ほら、潮鳴りが聞こえてくるでしょ
う。いつも聞こえているはずなのにね。でもそのときは、な
ぜかしいんとしていて、床に転がったお椀を見ると月の光が
あたっている――はずだったのだけれど。
 伏さったお椀には月の光があたっておらず、なのにそのま
わりの板の間は白々としていたという。不思議に思ってお椀
を取ってみると、床にころりとビー玉のようなものが転がっ
ていた。おかしなこともあるものだ、と思って拾いあげてみ
ると、ひんやりとしてすべすべとしていた。しかしその中か
ら、ちりちりとした刺すような感覚があったという。
 ――埋火。
 うずみび、ですか。私がけげんな顔をしていたのだろう。
祖母はおもむろに火箸を取って囲炉裏をかきまわし、灰の中
からあかあかとした燠を取り出した。
 こうやって火を絶やさないようにするのですが、その小さ
な球が、火を宿しているように思えて。月に火があるのです
か。月の光はつまり、太陽という火の玉の光が反射したもの
でしょう。ああ。
 あ、そういえば似たような話を聞いたことがあるような気
がします。でも、確かあれは、月の光ではなくて、月光でで
きた木の葉の影を取る話だったような。*
 あれ、同じようなことを経験なすった方がいたのでしょう
か。不思議ですね。そういって祖母は笑った。
 その球は大切にしまっていたはずなのだが、幾度かの引っ
越しのうちになくしてしまい、再びこの家に戻ってきたとき
は、祖母はひとりになってしまっていた。
 老いては子に従えといいますか、さりとて従う子はなし。
まあ、かわいい孫はここにいますがね。
 やだ、かわいくないですよ。この前小さな子に生まれては
じめて“おばちゃん”って声かけられましたし。
 祖母はこころなし笑ったようだった。


 どどどう、どどどう。
 潮がうねり、砕ける音が聞こえる。今夜は遅い下弦のはず。
夜は長い。天井を見上げてじっとしていると、かすかながら
ぼんやりと梁が見えるような気がした。囲炉裏の炭のわずか
な光だろうか。大昔の人は火を絶やさないようにするの、大
変だったんだろうな。そんなことをうつらうつら考えながら
目を閉じた。
 潮鳴りはやがて遠のき、いつしかざざざという潮騒にかわ
っていった。                   (了)


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* 安房直子 「天窓のある家」『夢の果て』 瑞雲舎 2005.


題名だけのスレ8 小池房枝さんお題No.444
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散文(批評随筆小説等) 【小説】月の埋火 Copyright mizu K 2007-08-06 20:10:18
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